2005年1月26日

2005年1月26日

今日、講評だった。講評と言うのは、教授陣が各作品についてあ~だこ~だ指摘したり評価したりする行事である。

僕はこの講評と言うものが、なかなか苦手である。これが得意という人も滅多にいないだろうが。美術の勉強をしていると、それも浪人なんかしてしまうと、この「講評」というものは幾度と無く経験しなければならなくなる。受験期は、ほぼ一日一回、なんだかよく分からない学生講師に「オマエには才能が無い」などと人格否定されたりするのである。

しかし受験期の作品はあくまでも合格のための行程というか、要するに合格ラインに乗っているか乗っていないかという基準で講評されるので、人格否定は別としても、ひとつひとつの指摘に胸を痛めたり、心を躍らせたりすることはあまり無い。

ところが大学に入ってからはそんなくだらない受験の基準は全て取っ払われ、「あなたは何を、何のために、なぜ作っているのか」というようなことが問われ始め、しまいには「あなたは何者なのか」というところまで問われることがある。

それはもちろん直接「大里君、あなたは誰ですか?」などと寺山修司的に問うわけではなくて、作品に全身全霊を込めれば込めるほど、しだいに作品=自分という図式が表われてきて、作品についての指摘は自分についての指摘へと変移していくのだ。

それだけに、講評は緊張する。「この作品、まったくダメだね。いろいろ考えたけれど、良いところが無い」などといわれた場合は、悪意の無い人格否定にすらなる。僕の場合、作品について不謹慎さや、安易さや、倫理性とか、その辺で指摘がある可能性を覚悟していた。

講評は各作品の設置・上映場所を点々と巡りつつ行なわれるため、僕は告げられた講評スケジュールを参考にしながら、1時間ほど前から作品の前でスタンバイをしていた。

その結果だが、予想外に、誉められた。ただし、この場合、単に「面倒くさいから持ち上げておいた」みたいなことも他の講評例で見られたわけで、安心しきってはいけないのだが、とりあえずほっとした。ある教授が、僕の作品について「笑うことは、見つめることにほかならない」というようなことを言ってくれたのが嬉しかった。

とにかくこれで4年間の大学の課程が終わった。明後日からは、卒業制作展を一般公開する。それが終わったら、ほんとうの終わりである。

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#Keisuke Oosato|ごろりの日記|コメント・トラックバック(0)|


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