2005年2月28日

2005年2月28日

お金が無い無いと言いつつ、月末まで2万以内で生活できたのは奇跡に近い。

なのに最近はCDをよく買う気がする。アマゾンは輸入版だと視聴ができるので(音質は悪いけど)、家に帰ってちょっとした時間に片っ端から聞いて、そこそこ良かったものをリストアップしていき、その中から決められた金額(自分で決めているんだけれども)にはまるように複数枚買っていくという…。そうやって淘汰されていって残るものは、結局映画と一緒で、みんなが良い、良いと言っている古いものになってくる気がする。

以前は歌詞を聞くために音楽を買っていたので、語学力に乏しい僕は邦楽にしか興味が無かったのだが、最近は歌詞が聞こえると耳が痛くなってくる。そこで、なにやら分からない外国語の歌のほうが自然に耳に入ってくる。なに歌っているのかはしらないけれど、まあ雰囲気で、まあだいたいこんなことを言っているんだろうな、と想像してみたり。

でも海外で売られている日本語のTシャツのように、すごく綺麗で重厚な音響派的メロディに乗せて「ああ、トイレットペーパーは選ばなくちゃね 摩擦の、摩擦の少ない方向に」なんて歌っている可能性もある。


そんなことをやっている暇があったら、HPでも更新したり、喪中はがき展についてなにか進展させたほうがよいのでは?と自省してみる。


喪中はがき展ですが、3月開催は難しそうです。しかしこうして開催を延ばすことで、誰からも忘れ去られたころに開催するのも何なので、できるだけ早い開催を目指したいです。

HP更新については、なにかまとまった時間が欲しいです。合宿とか、山にでも篭ったりして。アイデアはいっぱいあるけれど、その表現についてのアイデアがうまく出てこなかったり。喪中はがきと並行して、次につながる何かをやってみたかったり。

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2005年2月24日

2005年2月24日

ライブドアつづき...いや、僕はまったく経済には疎いので、ただ感想だけを書くに留まるわけだが。

今回の騒動を既存メディア(テレビ、新聞)世論vs新興メディア(インターネット)世論の戦いだと捉えてみる。そうするとやっぱりテレビや新聞はあんまりライブドアを良く言わないし、それを観ている人たちもライブドアってどうなん?だいたいホリエモン、喋り方が高慢じゃね?みたいな気持ちになると思う。

一方、ネット上の経済関係のブログを、ざっと40~50程度観てみると、圧倒的にライブドア支持率が高いように思える。というよりは、ライブドアは気に入らないけど正論を言っているし、どちらかというとテレビ局のやり方が気に食わん、という意見が圧倒的なように感じた。

いま、ある問題について、テレビや新聞ではAという主張で占められ、ネットではBという主張で占められているとするとき、「世論」というものをどう解釈したらいいのだろう?と思う。

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2005年2月23日

2005年2月23日

実に、体調が悪く、体がだるい。かといって熱があるわけではなかったので、かなり悩むが、仕事を休んでしまう。実際だるさはなかなか消えず、夜になるまで起きることもできなかったことを考えれば、休んだことは正解だったのかも。風邪の初期症状だったりしてね。

いまはずいぶん改善して、こうしてネットを見たりライブドアの行方について考えたり、ギャラリーを探したりしています。

ライブドアですが、彼の袋小路っぷりはちょっとおもしろいですね。

でも、政治家の人たちが「マスメディアは公平で、公器なものだから、買収はまずい」的なことを繰り返し言っているけれど、それはつまり、全マスメディアはNHKになったほうがいいということだろうか。

あと、前々から良く分からないのだが、上場して株式公開をしているということは、それを買っても別に悪くないのではないのだろうか。詳しくないから分からないけど、誰か教えて欲しい。

僕がホリエモンを嫌いになれないのは、彼の夢が「宇宙に行きたい」というものだからである。いま、回りを見回して、「宇宙に行きたい」といって、こつこつ金稼ぎをしている人なんて、なかなか居ないのではないか。

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2005年2月21日

2005年2月21日

実は昨日、18時に目が覚めて。目が覚めたら日が沈んでいる、というのは、本当にどっぷり落ち込む。

それを取り返そうとして、なんとか一睡もせずに今日の朝を迎えた。このまま起き続けて、夜にちゃんと寝ようと思っている。

さて今日は朝から時間が使えるということで、 BOOKOFFで本探し。その後、髪を切る。何度も書いているように、髪を切りに行くのがとてもおっくうである。フリッパーズギターの歌に「バスルームで髪を切る100の方法」という実にさわやかで微笑ましい歌があるけれど、あんなにハイセンスな気分で髪を切りに行ったことなど無い。一度も無い。

それでもなんとか乗り越えて、鞄を買いに行く。
つまり僕は、小学校くらいのときから過度に荷物が重いのである。なぜか、そんなに必要ないものまで詰め込んで、バックパッカーのように一生懸命歩いているのである。僕が出不精なのは、たぶんそのせいなんだろうと思い、そんな重い生活からは解放されたいと考えた。そこで、あえて小さい鞄を買った。

美術手帖のバックナンバーを買った。これは前から買おうとしてお金を取っておいたのである。特集は「日本写真史」、昨年から急速に写真に興味を持ち始めた僕にとっては、ありがたい特集だった。喫茶店で一気に読みきる。

そのあと「20世紀の思想」という本を読み始める。これは、20世紀に影響を与えた哲学者をめいっぱい紹介する本である。分かりやすく書いたという触れ込みだが、そんなに分かりやすくない。僕は多くの哲学書が分かりやすく書いたと言っておいて結局分かりにくいのはなぜか、ずっと考えていたが、この本を見てよく分かった。

哲学者の書いた本の引用が、まずいのだ。あれが分かりにくい。マルクスなんか何書いているのかさっぱり分からん。あれが訳を分からなくするのだ。ウィトゲンシュタインだったら引用しなければならないだろうが、ほかの思想家の場合、わざわざ引用する必要があるのかどうか。研究者が読むための本なら別だけど、初心者用の本なんか、もっと適当に書いたほうが良い本になると思う。

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2005年2月20日

2005年2月20日

タイのゾウが描いた風景画が、とんでもなく高い値段で売れたというニュースを興味深く見た。
ゾウが描いたくせに、あの風景画はかなりのクオリティである。たぶん人でも、なかなかあそこまで上手には描けないのではないか。

このニュースを見て、かつて考えたことのある「チンパンジーの描いた絵はアートと呼べるのか」という設問を思い出した。この問題は、僕が確か高校生のときに買った「現代アートの哲学」という本に紹介されていたものである。

この問題を考えるにあたって、たしか本ではいくつかの考え方を並べていた。

①ある哲学者は、あるものがアートかどうかを決定するために必要な事項について次のように定義している。

それが、アートにおけるさまざまな絵画理論や歴史の延長線上にあるための、何らかの理由付けがあること。


②別の哲学者は、アートを次のように定義している。
 

それが人工物であり、かつ制作者か、またはアートの理解者が、その作品に鑑賞のための候補という身分を与えていること。




ま、上記ふたつの定義は、いろいろ問題もあるわけで、芸術についての定義としてはまだまだ一般的に認知されていないらしいんだけれども。

それでも上の定義を踏まえて、さっきの設問に対する、この本での結論はだいたいこんな感じであった。

チンパンジー自体にはアートの観念もなく、歴史的経験も無い。チンパンジーが主体的に筆を握っていたとしても、それをアートとして認識して表現しているとは認められない。しかしたとえば調教師が、こんにちにいたるアートの発達ないし歴史の文脈のなかにこの絵を置いたとき、その調教師にとってのアートにはなり得る。そのような意図で一般に開放された時、その作品は人間の原始形態の表現として、美的な鑑賞の候補になる。


つまりそれ自体はアートじゃないけど、人がアートと認めることでアートになるってこったね。


でももし、チンパンジーが自発的に筆を取り出して、風景画なんて描いた日には、そっちのほうがよっぽどアートだと思ったり。


そんなことを思い出しながらゾウのニュースを見ていたら、頭が痛くなった。

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2005年2月17日

2005年2月17日

更新しなくなってから2週間が過ぎようとしているわけで。
まあ、まだ2週間か、とか思いつつ、そろそろアップを再開しようと企んでおります。

いろいろなことを考えていて、少しずつ小出しにしていこうと思っている。出しては消え、出しては消えの繰り返しかも。

曖昧な言い回しになるけれど、余裕というのはやはり常にあったほうがいい。
余裕が無い事で、寂しい判断や、寂しい物言いをしてしまうことが多い気がする。


話は飛ぶが、小林亜星氏が服部克久氏の曲がパクリだと訴えている裁判だが、小林亜星氏が逆転敗訴になった。というか、前にパクリそのものについての裁判があって、そのときは最高裁が小林氏勝訴の判決を下したのだが、あの判決にはどうも合点がいかない。

実際、「どこまでも行こう」と「記念樹」は似ているのである。しかし、「似ている」ということに著作権の侵害を捉えるというのが、どうにも分からないのである。つまり、パクられた人が被る被害について、僕は想像できていない。

僕はパクられても、その人の創造性が否定されたり損害されたりはしないと思う。後だしのほうが長期的に考えて評価が低いに決まっているし、仮に後だしのほうが売れたとしても、それをより先に出していた人の先見性はますます評価されるものだと思うからである。つまり安倍なつみがいくらパクったって、安倍なつみよりはaikoや浜崎あゆみの評価が高いままであるはずである。

仮にパクった人の方が評価が高く、さらに長期的にもパクられた人の評価が芳しくないという例を考えてみても、それはただ単純にパクったほうがやり方がうまく、パクられた方のやり方が下手だった、の一言に尽きるのではないか。それが、創造という世界なのではないか、と思うのである。僕はたとえば喪中はがきなどを作っているが、ウェブに載せているし、ほぼまるパクリされて誰かにうまくやられる可能性は十分にあると思う。あるいは、まるパクリはされなくても、同じ発想で勝負してくる人はいるはずである。僕はパクって来た人よりうまくやりたいと思っているし、そのように努力している。パクられてさらに評価まで持って行かれた時には悔しいと思うだろうが、それが実力なのでしょうがない気もする。

実際パクリかどうか分からないが、十中八九パクリだと思っているが、
僕が数年前に企画したSPACIUMという企画は、とあるビールが有名な場所にある写真美術館の展示でそっくりなのがやられていた。SPACIUMが終わって3ヶ月後の話である。みんながあれはパクリだ、ひどい、というのでつられて見に行ったのである。
展示自体はSPACIUMの重要なコンセプトを理解しておらず、あまり良くなかったのだが、僕はあのパクられ方に自信を感じた。自分が思っている事は、商業的にも行けるんだな、と思った。


確実に言える事は、ものを作るのは人であるということである。パクられた人は、次にも価値ある作品を作る事が出来る。しかし、ただパクった人は、それはできない。それは決定的な差である。信念があってパクった人は、続けていい作品を作るだろうが、それはもうパクった事自体にも個性が宿っていると考えていいのではないか?つまりその人には実力があるということで、そのことを糾弾することは、創造の場においては長期的にマイナスなのではないのかと思う。

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2005年2月16日

2005年2月16日

見過ごされた80万~100万人の死

ルワンダ大虐殺 映画で論議再燃

「知らなかった」米で高い関心

国際社会の”無策”問う







という見出しの記事があった。アメリカの映画「ホテル・ルワンダ」を見た人々が、大きな衝撃を受けているという内容である。映画で恐ろしい虐殺の実態を知り、「こんなことは、いけない」と思ったのかと思い、読み進めたら、少し違った。

記事によれば、映画を見た人々の思考の変遷は、次の通りである。

「何が起きていたか知らなかった」



「見捨てたことが恥ずかしい」



「どう行動すべきだったか」



「PKO軍が虐殺を防ぐ行動をとるべきだった」



「今後は大虐殺の危険性が予見できる場合、先制攻撃を認め、対象となる国の不可侵の主権は制限されるべきだ」






う~む、さすが世界の警察。しかし、なにか怖い…。

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2005年2月12日

2005年2月12日

今日は朝起きて、家でずっと仕事をしていた。
家で仕事をしたものが成果として認められるなんて素晴らしい。けれど、始まりもないし、終わりも無い。
与えられた仕事が終わらなければ、終わらないのだ。でもそれが、自分には合ってるかも。

そういえば、ここ半年くらい、散歩をしていない。目的を持って外を歩くことはあっても、目的無しにぶらぶらするということを、かなり長い間していない気がする。最近腰痛がひどいのだが、たぶん悪い姿勢で座り続けているのが原因だろう。運動しなければ。

ライブドア、おもしろいこと連発していて良いですね。堀江社長の「稼ぐが勝ち」という本をよっつのお母さんに枕元に置かれたので読んだのだが、実に面白かった。あの本が面白い理由は、自分にはまったく関係ないよそのお話をしているからだ。彼がどんな方法で、いくら稼いだとしても、直接的にはどうだっていい。ようするに、彼のお話は、なんだか将棋を指すような話ばかりなのである。こうしてこうしてこうなる、とただ彼のやった道筋だけが書かれてある。それ以上はなにも無く、そこが潔い。

そう思っていたら、さっきブロードキャスターで、堀江社長ビジネスのことを将棋の話に置き換えていた。ニッポン放送株の件で、フジテレビの対応を「穴熊だ」と非難していた。

僕はそういえば、中学時代、将棋をやると穴熊を好んで使って戦っていた。穴熊というのは、将軍様を一番隅っこに追いやって、まわりを北朝鮮軍兵でこれでもかというくらいに固める、究極の防御戦法である。一見どうやっても崩せなさそうだが、実は将軍様は一歩も動けないし、ほかの兵士もそこにただ居るだけで歩と変わらない存在になるので、自滅しがちなのである。上手い人がやったら違うかもしれないけど。でも棋譜をひたすら載せている本を見ても、穴熊を使った対戦って、見たこと無いかも。

堀江社長は将棋用語連発で、「もう詰んでいるんです」とか「これは詰め将棋です」とか言っていた。やはり彼は将棋が好きだし、将棋を打つようにビジネスをしているのだ。そしてやはり、それは僕にはまったく関係ない。関係ないから、何百億という金をつぎ込んで、「こいつぁ、おもしろそうだ」ということをどんどんやってくれると、僕はとても爽快な気分になる。

彼の意見を聞いていると、フジテレビはもう乗っ取られるな、と思った。ていうかフジテレビジョン、堀江社長出演の番組をやめたり、ニッポン放送株のニュースをワイドショーでもあんまり扱わなかったり、あんまNHKと変わらないね。

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2005年2月11日

2005年2月11日

今日は、というか今日も仕事でした。

ここんとこ、けっこうたくさん仕事入ってます。理由は貯金があと2万しかないからです。こんなんで、早く独り暮らししたいとか言ってるんだからバカもほどほどにしろという感じです。いや、卒制のとき大量のバック紙さえ買わなければ、もっと余ってた。でも壁を白い紙で覆ったことは後悔してない。綺麗綺麗と言いながら、あんなきったねぇパネル配りやがって、大学なんてもう信用できない。まあもう、卒業ですが。

くだらない作品のアイデアが、わりと出てくるのが最近の救いである。どれも映像ではなくて、やはりミクストメディアの、何と分類していいのか分からないような感じの。あるいは、98%以上パクリの。でもパクりも、潔さとやり切りさえあれば、捉えられ方が変わってくると思う。最近また久しぶりにフリッパーズギターの「ヘッド博士の世界塔」を聞いたが、あれを聞くと”引用”という言葉の都合の良さに惹かれる。

いまだに、高校時代の恩師の口癖「学ぶの語源は、真似るである」という言葉が好きである。個性的であることにそれほど価値を見出せない。それほど緊急に、他者との差別化が必要なわけじゃないし。


ま、そんなことはどうでもいいか。


とつぜん関係ないけれど、星占いと血液型占いというのは、やはり僕はバカバカしいと思う。バカバカしいと思いながら、浪人のとき受験日の朝、みずがめ座の運気が最低であると日本テレビが宣言したときは、「絶対に、気にしないぞ。だって、非科学的だし。どんな根拠じゃ、オラ」と反復したが、反復すればするほどすごく気になった。実際、結果落ちたし。

でも星占いと、血液型占いが統合されれば、当たる確率は高くなるかもしれない、と思う。つまりたとえば「A型で、かつ牡牛座」という制限は、なにか占いに対する大変な説得力を与えることになると思う。それが星占いではなくて、誕生日占いだったら、その精度はなおさら当たるに違いない。さらに学歴占いというものがもしあって、「A型、かつ3月2日生まれ、かつ早稲田大学卒」となれば、んもう確実っっ!という話になるだろう。そうに違いない。いくら占いがインチキ臭くたって、たぶんそこまでいくと当たるはずである。


そういうことで、僕はAB型で、2月1日生まれで、うまくいけば武蔵野美術大学卒なわけだが。


先日、この3条件に、ぴたりと当たる有名人を発見した。

つまり、AB型で2月1日生まれでムサビ卒の有名人がいたのである。僕はそれを知ったとき、「あぁ、俺はこれから先、この人と運命を共にするんだろうなぁ」と思った。あきらめに近いような、少しセンチな気持ちになった。





…みうらじゅん…、あなたはなぜに、AB型で2月1日生まれでムサビ卒なのでしょうか。

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2005年2月10日

2005年2月10日

猫のことについて書かねばなるまい。

いま、我が家では日に何度も即席の家族会議が開かれる。議題は、14才の猫、ラピに手術をしたほうが良いのか、しないほうが良いのか、ということである。


ラピは3年前からひどい糖尿病で1日に2回の注射を打ち、さらに2種類の粉薬を飲ませ続けている。それでなんとかなっていたが、最近はそれにもましてウンコができないのである。

以前に「ウンコに学べ!」という本を読んだ。この本はいろんなことを語っている非常に興味深い本だが、一言で言うと「人間はウンコができないと死ぬ、ということを知れ!」と主張している本である。ラピも、ウンコができないことで、もう死まであと一歩というところまで来ている。

実はウンコが出ないのは半年前からなのだが、どうしていたかというと、まず下剤を飲ませ、それでダメなら動物病院に行って、腸に手を突っ込んでウンコを掻き出してもらうのである。腸に手を突っ込んでウンコを掻き出すのは猫にとってはかなり体力を使うし、そしてストレスもかかる。ましてやラピはご老体なので、肉体にかかる負担はかなりのものである。病院のお医者さんは、この掻き出しで、腸が破けて死ぬことだってあると言うのである。

いろいろ調べた結果、ラピがウンコが出ないのは糖尿病とは関係なく、背骨の異常によって排泄機能に関係する神経がおかしくなっているからだと分かった。となれば、自力での回復は不可能、病院でできることは、今までどおり掻き出し続けるか、腸を切り取る大手術を行なうか、どちらかしか方法が無いらしい。

腸を切り取る大手術は非常にリスクが高く、死ぬ確率がかなり高いと、先生は言う。そして先生は、その手術を今までに一度もしたことが無いと言う。それは先生が経験不足だからではなくて(地域でもかなり評判の良いお医者さん)、動物の手術の場合、予測不可能な事が多く、生死に関わる手術はしないという原則があるからだそうだ。

先生は最後の切り札として、なんという薬か分からないが非常に強い薬を処方した。それを飲むと確かにウンコはするが、異常な量のよだれを垂らし、食欲は無くなり、元気もますます無くなる。ようするに苦しそうである。

先日は、それでも一週間ウンコが出ず、ラピを病院に連れて行ったわけだが、もしそこで手術しかない、ということになり、そのまま病院で死んだら、と思うと、なかなか複雑な気持ちになった。

ケースによると思うが、ここまで苦しい猫の場合、安楽死させる事もあるという。それでなくても、いままでラピが生きていたのは、かなり人工的な、延命措置のたまものであった。猫の気持ちは分からないが、生きたいのかもしれないし、ひょっとしたら苦しすぎて、もう死んでしまいたいのかもしれない。

いま、病院で手術をして、そのままぽっくり死ぬことも覚悟して、かすかな成功への期待に賭けるのか。
ラピが体力の限界になるまでウンコを掻き出し続け、疲れ果て死ぬのを待つか。
それとももう、楽になってもらうのか。


非常に難しい問題である。

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