2005年6月30日

2005年6月30日

どうでもいいことなんだけれど、ここ数ヶ月思っている事。

ラジオのナビゲーターは、J-WAVEに限ってかもしれないが、必ず晴れることを祈り、待ち望んでいる。そしてその放送時間帯に実際晴れればハッピーな気分を打ち出してくるし、雨になると必ず少し落ち込んだような声で「明日は晴れて欲しいですねえ」と言う。必ず春が来ると喜ぶし、クリスマスが近づくとうきうきしている。春が来て「春は嫌いだ」と話すのは、たぶんリリーフランキーくらいだ。

「晴れ」につきまとう幸せなイメージとは一体なんなのだろうと思うことがある。ナビゲーターなら、雨に前向きさを見いだすトークが欲しいと思う。たぶん宇宙レベルで見れば、雨が降る事が奇跡的で、神秘的で、幸せな事になるに違いない。晴れてばかりいて良いニュースというのは、あまり聞かない気もする。

梅雨になると心無しかナビゲーターは沈みがちな気がする。彼らはいつでも明日の晴れを待つばかりなような気もしてくる。いや、すごく微妙なトーンの変化なんだが。

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2005年6月29日

2005年6月29日

都議選の選挙カーが走り回っている。
車に添えられた大きいスピーカーから、バカでっかい音で、

「大きいスピーカーから大きな音で、ご迷惑をおかけしております!」

と来た。分かってるならやるな!

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2005年6月28日

2005年6月28日

最近は何か仕事をしているらしい日々を送っている。
しかし、いったい何の仕事をして、どのような人と会ったか、などの話は、なかなかここには書きづらい。そこで、あまり書く事が無いとなる。

いま非常に興味深い本を読み進めているが、これも読み終わらないといっぱしのことは書けないので、いまは何も書けない。

6月も終わりますね。今月はシャッター画があったり、いろいろ仕事をしたりと、充実した一ヶ月だった気がする。来月は、ダメ工房のリフォーム工事をしたいと思っているが、そんなことをやっているとコンテンツを更新する事ができなくなるなぁ。創作喪中はがきもそろそろ再開させたいし、新しい企画も始めたいし・・・。RSSが出力されなくなったブログもMovable Typeなんかに変えてみたいし・・・。あとあわよくばサーバーも移転させたい。

そんな野望をひとつひとつクリアしていく7月になるだろう。

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2005年6月27日

2005年6月27日

柔道選手の谷亮子選手が、妊娠したので世界選手権出場を辞退した。

谷選手は「田村で金、谷で金、ママで金」と言っていたが、僕はその次はなにがくるのだろうと必死で考えていた。「不倫で金」「夜逃げで金」などいろいろアイデアは出たが、もっとも現実的かもしれないのが「夫婦で金」そして「親子で金」なのかなと思った。

しかし明確で且つ壮大な目標を、はっきりと事前に宣言する谷選手はすごいと思う。僕もそういうことができるようになりたいと思う。それには、まず宣言すれば良いのだ。しかしそれは、簡単そうでなかなか難しい。

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2005年6月25日

2005年6月25日

ちょっと前の話になるが、最近のクイックジャパンの中にあったドキュメンタリー監督・森達也のコラムがたいへん印象深かった。

それは、フジテレビの「NONFIX」にて、森監督が”天皇”をテーマに作品を撮ることになったが、かなり企画が進んだ段階で番組側から「やっぱり森さんのやり方じゃダメ」ということになった話である。

森監督がやりたかったことは、一言で言うと「天皇に会いに行くドキュメンタリー」を作りたかったらしいのである。しかしそれが無理であることは、誰にだって分かる。森監督も分かっている。森監督は「天皇に会いに行こうとする”森達也の”ドキュメンタリー」を撮りたかったのだ。しかし、それはダメだとの一点張りなのが番組側だった。

森監督の「夜の映画学校」に、何度か足を運んだ。そこで彼が繰り返し使用した言葉は、アクションドキュメンタリーという言葉だった。つまり制作者の主体的な行動そのものこそがドキュメンタリーであるということである。

そのアクションというものは、時になにか大きな権威を失墜させたり、物事の常識を転覆させたり、隠された真実を暴いたりする。つまり爆弾みたいなものである。森監督は「A」という作品でだって、巷ではオウムバッシングが続く中、ひとりオウム真理教の施設内から取り囲むマスコミにカメラを向けたのだ。いま、事件がすっかり過去のものになってもなお、「A」に収められた情報は新鮮で、色あせていないと思う。しかし「A」がなぜ生まれたのかを考えると、やはりテレビディレクターだった当時の森監督のやり方があまりにテレビのやり方に反していたため、しょうがなく(?)映画という形で公開したのである。

そんな中、彼に、日本マスメディアの最大のタブーである「天皇」を作らせなかったことは、単純にもったいないな、と思ったし、結局「A」のときから森監督を取り巻く状況は何一つ変わっていなかったのだろうなと想像させられる。つまりテレビにおけるタブーな手法を使うことがアイデンティティーになっている森監督であるのに、そのタブーを恐れて企画を潰すなんて、だったら最初から森監督に声かけるなよ、という話である。

結局テレビではお蔵入りになったこの企画、森監督はまた一匹狼で完成させたら、おもしろい。もちろん森監督はフジテレビとの意見の合わない日々も記録しているだろうから、そんなこんなも取り入れて、是非作り上げてほしいと思う。

しかしロシアで作られた、イッセー尾形主演の昭和天皇の映画が日本では公開禁止であることを考えると、森監督が仮に「天皇」で史上最高のドキュメンタリー作品を作ったとしても、見られるのも評価されるのも、海外でだけ、ということになる気もする。

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2005年6月24日

2005年6月14日

最近はなかなか書く事がないわけで。いや、あるんだが、書けない事だったり。新しくイラストの仕事をすることになりそう。本のイラストらしいです。まだ詳しく分からないけれど、とにかく仕事があるというのがいい感じ。同時に、コラムらしきものを書いてみたり。ダメ工房で書いているのと、仕事で書くのは感覚がずいぶん違うなと思いつつ、結局ダメ工房で書くのと同じ感じで収まった。

昨年はやった本で、早川いくを著「へんないきもの」を読む。笑えるというよりは、興味深い子供向け学術本というような感じで、非常に興味深くページをめくった。

僕はウミウシの本を何冊か持っていて、それを時間を見つけて眺めるのが好きである。なぜなら、ウミウシは日頃の色彩体験からは考えられないような奇抜な色/形/模様を持っているからである。また、水族館へ行ったなら深海魚がいちばんおもしろいと感じる。それも、自分の常識からはまったく離れた形や生態を持っているからだ。この本に出ているいきものは全て本当に存在する生き物で、自分の知らないものも数多く紹介されていたので、「すごいなあ」「自然すごいなあ」とつぶやきながら生命の神秘を感じた。

この生命の神秘に惹かれるのは、やはりその構造なり習性なりが、必然性を持って備えられているからだと思う。いまだ解明されていないよくわからない生き物も、ちゃんと理由があってその生態を持っているのだ。そこに感動する。

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2005年6月24日

2005年6月24日

まずは、広島カープの野村選手の2000本安打おめでとうございます。広島ファンの僕にとって、特別な選手はやはり、野村選手と前田選手なのである。これは広島ファンの人であれば、誰だってうなずける思い入れだろうと思う。

さて、流行りのMusical Batonである。僕も流行に乗ろうと思う。大学のお友達であるマキ医師先生と、ダメ工房員のこうしましょう君から同時に回ってきました。こうしましょうは「ごろうはやらなさそう」って言っていたけれど、やります。

これは音楽に関する5つの質問に答えて、次の友達に廻して行くというものです。



5つの質問と回答。
——————-
●コンピューターに入ってる音楽ファイルの容量
0曲、0GB
はい、殺伐としております。


●今聞いてる曲

Wilco「Spiders(Kidsmoke)」

Wilcoの「a ghost is born」の曲です。同じフレーズが延々と続きますが、八丈島に行く途中、船の上でずっと聞いてました。飽きそうで飽きない感じで、何回も聞いています。

●最後に買ったCD

Jack Johnson「in Between Dreams」
サンボマスター「サンボマスターは君に語りかける」

同時に買いまして。聞きやすさベースで行こうと思い、流行に乗ってJack Johnsonなんか買ってみました。いまやどこの居酒屋でも流れているし(昨日のバンチキロウでもかかっていたし、トタン屋でもかかっていたし)、J-Waveもすごい勢いでかけるし、生ゲノム事務所にも置いてある。こりゃすごいですね、しかし確かに、夏にほろろんとした気分にはなる。

サンボマスターは洒落です。

●よく聞く、または特別な思い入れのある5曲

ようし、恥ずかしげも無く行きます。やはり中高時代に聞いたものが中心になりますね。

・THE BOOM 「風になりたい」
これは誰に何と言われようと、はずせないね。THE BOOMで最も好きな「極東サンバ」に入っていますが、このアルバムは徹底的にラテンな感じでご機嫌うるわしくなります。最近は教科書にも載っているらしいけれど、島唄よりもずっと世界的に有名になってほしい曲です。ちなみにTHE BOOMの曲風を一言で言うと、郷土音楽です。

・EELS 「Grace Kelly Blues」
EELSのサードアルバム「daisies of the galaxy」の一発目の曲ですが、これがなんともいえない切ない曲でありまして、歌詞ぜんぜん分からないけれど、たぶん葬儀かなんかを意識してるんじゃないだろうか。このアルバムは母親が亡くなったことがとっても色濃く曲に反映されていて、ジャケットは母親がよく読み聞かせてくれた絵本の表紙。すごくよく聞きます。

・奥田民生「あくまでドライブ」
奥田民生のサードアルバム「股旅」の一発目の曲です。どうも、アルバムの一発目の曲ってのが好きらしいです。炎天下のドライブを自分の人生に重ねちゃったりしている歌詞が、言葉足らずで良いのです。ヴィム・ヴェンダース監督の「パリ・テキサス」をなぜか連想します。それはライ・クーダーを連想しているってことなのかもしれないが。

・フリッパーズギター「奈落のクイズマスター」
フリッパーズギターに関しては、この曲が含まれている「ヘッド博士の世界塔」というアルバム自体が良いのですが、この曲は秀逸です。歌詞も何かの隠喩のようでもあり、でたらめのようでもあり、メロディも、歌声も、雰囲気も、すごく危ういラインの上で成り立っています。それだけに、飽きずに聞けます。飽きずに聞けるというのは重要なことです。

・スチャダラパー「サマージャム’95」
世の中に「夏」の曲はあきれるほどあるけれど、最も「夏」の本質的な部分を突いているのは、紛れも無くこの曲だと思います。この曲を聴くと夏のけだるさが一気に体中を包み込みます。曲中の名言「夏本番!海か?山か?プールか?いや、まずは本屋」は、中学校の国語の教科書に載せても良いと思います。


趣味がアレですみません。

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2005年6月23日

2005年6月23日

今日は新しい仕事の打ち合わせをする。ちょっと面白そうだが、今ここで詳しくは言えない。

夜から、シャッター完成記念・トタン屋店長主催飲み会を、経堂のバンチキロウにて開催する。トタン屋店長とバンチキロウの店長はお知り合いなのだそうである。

参加メンバーは、いつもシャッターを手伝ってくれたこうしましょう、ぺそちゃん、とよん、あに~た、づけし、eriちゃん、モアイである。皆さん本当にありがとうございます。色々な話をして、楽しく時間を過ごす。

その後、店長らとカラオケに行くが、店長はすごかった。歌がうまいとかってのもあるんだが、歌っているときに背中に何かを背負っているのである。そこに驚いた。あの背負われている「何か」は、たぶんとてつもなくスゴイ物で、とうてい僕には背負えない類のものだった。

そして、終盤戦は店長が始めたビールを口からぶっかけ大会に様変わり、僕もやられるばかりではいけないと店長の顔面めがけビールをぶっかけ、なぜかカラオケなのにびしょびしょになって、へとへとになったが何かすっきりして帰途についた。

こうしましょうも言っていたのだが、シャッター制作は今思うと祭りのようなもので、色々あったがやっぱりどう考えても楽しかった。去り行く店長の背中を見ていると、シャッター制作は終わったのだなぁとしみじみと思った。

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2005年6月22日

2005年6月22日

葉山にある神奈川県立近代美術館で行われている「片岡球子展」に行ってきました。

片岡球子さんはかなり有名な日本画家なのだが、なんと御年100歳!というわけで、100歳記念展覧会なわけです。前々から生で見てたいと思っていたのでちょうど良かった訳だが、やはり100年も生きていると作品数も膨大で、まずそこに圧倒される。そして、100年のあいだに作風もがらがらと変化していく。

最初のほう(~50歳くらいまで、ってか50歳とかで初期って言われるのがすごい)は、わりとありふれたと言ってしまっては失礼なんだが、まあよくある感じの風景画、肖像画である。もちろんこの時点で球子節みたいなものは既に表出されているわけで、よれよれの個性的な線、色使い、大胆なモチーフ選びと構図など、日本画は退屈だと思っている人にはぜひ見ていただきたい作品の数々。

そして50歳~70歳くらいまで、いろんな山の絵のシリーズになるのだが、これがまた観念的ですごい。そう、片岡球子の日本画が、退屈さから抜けているのは、観念性というものが大きいと思うのである。たとえば、鹿児島の桜島にある山では、「岩につぶされて人が死んだと聞いて、岩はすべて人だと思って描くようにした」などというコメントがあり、岩はすべて擬人化されているのである。また富士山についてもあるときは斜めだったり、真っ赤だったり、変な形していたり。ただの風景画と侮るなかれ、そこにみなぎる彼女の思いが、徹底的に注入されているのだ。

それは、70歳くらいから始まる「面構」シリーズでも継承されている。面構シリーズは歴史上の人物をモチーフにして、その人物について徹底的に調べ、その人が現代によみがえった(というと語弊があるかもしれないが、本人の言葉を借りると”現代との対比という関係において存在”)と言う仮定のもとで肖像画を描くものである。このシリーズには、あまりのすごさに絵の前にただただ「すげぇ・・・」と立ち尽くすばかりであった。

葛飾北斎、喜多川歌麿、東州斎写楽などの絵では、実際に彼らが描いた絵の前に本人を座らせている。そして、彼女はその人の表情、姿勢だけでなく、着ている服とその模様にまで、「その人らしさ」を表現しようとする。この服装がとにかくすごい、友達100人読んで「これ、すごいよ」と言いたいくらいに。で、そのキーになる「その人らしさ」というのは、彼女が資料に基づいてとにかく想像を巡らせた結果である。また、資料の乏しい写楽については人格や身分を勝手に想像して描いているので、「これはフィクションです」とまで言っている。こういった観念的な部分が、やはり肖像画らしからぬ肖像画を成立させている所以だろう。個人的には80歳~90歳前半に描かれた作品の完成度は、たいへんたいへん高いものだと思っている。

最近の作品は、おそらくからだが弱ったのか(100歳だから当たり前だよね)線がますますよれよれになったり、細かい作業が無くなったりしているが、逆にそれが味になって、ますます個性的な仕上がりになっている。おそらくいまも作品を作っているのだろうが、その凄まじい力、作品そのものというよりも100年生きて絵を描き続けているという事、そのバイタリティに感動した。

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2005年6月21日

2005年6月21日

自己アピールっていうものを平然とこなす事が出来る人は、やはり社会に適応している人なんだな、と思う。

僕はいろいろ制作しているのでアピールができていると思われがちだが、如何せんそのアピールは知人友人の範囲で止まってしまう。もっと新たなる人脈やそれに引っ付いてくる仕事の開拓をするべきなんだと思うのだが、わざわざ別の方向を向いている人に自分の作品を眼前に広げて、「さあ、私は素晴らしい才能の持ち主です。じっくり見てください」というのは何だか気が引けるわけで。

ホームページで作品を公開するのが自分に合っているのは、「まあ、見たいなら見ていけば良いし、気に入らなければ帰っても良いです」という形態になっているからである。たとえばシャッター画でも、あれを描いている後ろで人が通って、気に入らなければ素通りすればいい。わざわざ僕が出て行って「おもしろい絵を描いているんだから止まっていってくださいよ」などと言うことにはやっぱり不自然だと思うのである。それで、何も言わなくてもおもしろい作品だったら、人は自然に見ていくし、立ち止まるし、話しかけてくるし、場合によっては「一緒に仕事しませんか?」と言ってくれたりすることもあるはずだ。そのためには圧倒的におもしろい作品である必要があるし、そこで認定された「おもしろい」というのは、たぶんとても信頼できる「おもしろさ」なのだと思う。

僕はそういうふうに思っているので、積極的に自己アピールをした結果帰ってくるものというのが、どうにも信頼できないような気がしてしまう。そこで、僕は目一杯アピールしようというモチベーションが低下し、黙り込んでしまう。これはとってもあやうい推測に基づいた行動なわけで、いやいやお前、クリエイターたるもの、がぜんアピールをすべきというお話はさんぜん聞いてきたし、たぶんそれが真実だということは頭では理解しているつもりなんだけれど、ねえ。

しかしやっぱり人にはそれぞれ合う合わないというものがあって、それを最優先にすべきという考え方に基づけば、僕はやっぱり「待ち」の論理でやっていくのが肌に合っているということになる。それを本当にうまく成功させる為には、さっき書いた事と重複してしまうが、圧倒的な技術と、知識と、経験と、おもしろさが必要だよねえと思ったりする。

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