2008年8月17日

靖国を訪れて

先日、お誘いがあって靖国神社の「みたま祭り」に出向いた。
映画「靖国」を見終え、感想を考えていたときから、そういえば実際に訪れたことはないのだよなぁ…と申し訳なく思っていたので、これ幸いとばかりにご一緒させていただいたのだった。
九段下の駅から出て坂を上っていくと、すでに浴衣姿のお兄ちゃんお姉ちゃんたちが行きかっている。彼らの行く先に見えるのが靖国神社だった。
一の鳥居をくぐると、境内まで向かう参道には屋台が列をなして立ち並んでいる。若者からお年寄り、家族連れからカップルまで、多くの人々で賑わい大盛況だ。参道の両脇には、頭上高くまで掲げられたぼんぼりがずらりと並び、灯りを点す。ふと見れば、門の辺りには七夕祭りに使われる大きくて立派な飾り物が吊るされている。参道では、ねぶた祭りに使われる山車(と言ってよいのかな…?)が飾られていて、その前でたくさんの太鼓が打ち鳴らされる。見物客は興味しんしんといった様子で写真を撮り始めた。
しばらくすると、参道の中央を阿波踊りの一団が通る。先頭は若い女性で、列の後ろになるにつれ、年齢層が高くなっていく。最後尾のお婆ちゃんの踊りは、力が抜けているようでいて、けれどもキレがあって、振る舞いが一番美しい。
一団が通り過ぎたあと、その先に見えたのは大村益次郎の銅像を中心にして立てられた盆踊りの大きなやぐらだった。やぐらの上では、浴衣を着たお婆ちゃんたちがこれまた華麗に踊り、その下ではおじさんやおばさん、お姉ちゃんや兄ちゃん、お母さんに連れられたガキンチョたちが、上の婆ちゃんを手本にしながら、二重に輪を作って踊り続ける。

お化け屋敷やら演舞場といったものも含めて、様々な見世物、出し物が渾然一体となった雰囲気はとても不思議だった。また、日本の各地域のお祭りを少しずつ凝縮したような見世物は、地方出身の戦没者の方々のために慰霊として行われているのだと耳にして、妙に納得してしまう。いまこの場所には、気高いような、なまめかしいような、妙な力強さと美しさを感じさせるものが確かにあるように思えた。


帰路。駅から降り、家に向かう途中。静かな住宅街の一角にある一軒の家の前に、ナスときゅうりで作られた精霊馬(お盆のときに用意するやつ)が置かれていた。隣にはなにかお供え物のようなものもあった。
日本て良い国だと、今日くらい思っていいだろうとふと感じる。そんな充実した一日の終わりであった。


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2008年5月12日

第24回「靖国」

中国人の監督が日本の靖国神社のドキュメンタリーを撮ったという「先入観」はどうしてもあるわけで、見る前からいろいろな意味で深く突っ込んだ内容のものを期待していた部分がありました。
そうしていざ作品を見てみると、靖国神社にまつわる様々な問題点・争点、神社自体の歴史、成り立ちに切り込んでいくというよりも、靖国神社に集う人々、取り巻く人々を冷静に、丹念に撮影していったという印象。
見終えた後の感想はとしては…どうももやもやした印象がぬぐえないというのが正直なところ。
以下内容に触れます。


作品を大きく分けると、

○靖国神社をとりまく様々な人々の主張を記録した映像
○靖国神社に奉納する靖国刀を作っていた刀鍛冶・刈谷さんへの取材映像

とで構成されている。

刀鍛冶・刈谷さんへのインタビューはドキュメンタリーならではの「発見」に満ちた、魅力的な映像だった。
とりわけ撮影者の質問に沈黙する刈谷さんの姿が印象的だ。質問に窮しているのではなく、簡単には答えられないという葛藤が見て取れる。刀鍛冶としての、職人の誇りと、靖国刀を作り続けてきた責任と重み。内面を推し量ることは難しいけれども、割り切ることなどできない問題なのだということが伝わってくる。
刀作りを再現してもらう工程では、言葉にしてしまうと陳腐ではあるものの、技の美しさ、確かさが感じられ、思わず見入ってしまうものがあった。

(伝統として受け継がれてきた技を元に、当時の時代背景の中で、求められる形で職人が作った刀。そこには美しさと力強さを感じた。極端に言えば、たとえそれが戦場で将校の刀となろうとも、人の首をはねることに使われようとも、その刀を作り出した匠の技と、もの自体の持つ文化的な背景は否定できない自分がいる。少なくとも、後の時代の人間が簡単に割り切って断罪することなどできないし、文化そのものを否定することなどできないのではないか。と考える。)

「休みの時に聞く音楽→靖国の音楽」と聞き間違えたときのズレは、この作品の中でも魅力的なシーンのひとつだと思う。


一方で、そのほかの人々のインタビューは突っ込みが曖昧なせいもあり、刈谷さんに比べて彼らのスタンス、背景がわかりにくい。いちがいには言えないが、「靖国」に登場する多くの人々にとって、それが例え擁護すべき対象であれ批判すべき対象であれ、靖国神社という存在自体が、自身のアイデンティティーを安定させる、出自を明確にするための一種の「拠り所」となっている側面があると感じる。


そうしてそれまで重ねられていた取材、インタビューとは異なり、過去の映像を抜粋し、音楽にのせて構成したコラージュ風の映像がラスト近くに流れる。おそらくもやもやとした違和感はここに集約される。
それまでの取材では、多様な主張と現実の様相が映し出され、少なくとも割り切れる物事としては見えていなかったはずだ。靖国神社、日本の戦前戦後の歴史を単純に一本のラインとしてつなげ、物語化してしまっているこのコラージュは、あきらかに飛躍がありすぎるのではないかと思った。
(出所の不明瞭だという)過去の映像(写真?)を事実の集合として語ることにも違和感を覚えてしまう。

絞るポイントによってはいくらでも読み取りようのある‘開かれた感じ’なのだけれど、作品全体で考えると納得できない。編集・構成によってぼんやりとした意図・主張は見え隠れするものの、どうも判然としない。監督自身の日本・靖国神社に対する視点が非常に気になった。

(むしろ何に配慮することもなく、明確に突き詰めて欲しかった。そうするとひょっとしたら中国人から見た「日本」「靖国」になるかもしれないが、ドキュメンタリーとしてはむしろそちらのほうが興味深い。なので、インタビュー中に、刈谷さんが逆に監督に向かって質問をしたとき、監督は答えるべきだったのではと思う。)


相対的に俯瞰した視点で見つめようとも、ドキュメンタリーにおいて公平・中立・正義などあってないようなものだと観客でさえ気づいている。そしてイデオロギーや時代性といったものから人は逃れることなどできないのではないかとも思う。
ドキュメンタリーのおもしろみとはどこにあるのか…。その疑問に完全に答えられはしないけれども、現実に対する興味に始まって、その現実からなにを発見できたかにかかっていると思う。
作り手がモチーフに対する自らのスタンスを踏まえ、その出自をもとに歴史を顧み、誠実に現実を観察し、記録し、「発見」したものこそが、ドキュメンタリーの強さにつながるのではなかろうか。


そんな真面目な疑問も考えた、渋谷シネアミューズは全回満員御礼、一日がかりの観賞だった。




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2007年9月30日

第23回「ミツバチのささやき」

「ミツバチのささやき」前知識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。左派の人民戦線政府と、フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。

市民戦争…国内における政府と反逆者による戦争。(革命戦争)



作品の舞台となるのは、内戦が終結しフランコ将軍が政権を握って以降、独裁体制がしかれた1940年ごろ。各地方が分断され、「消耗」、「疲弊」といった内戦の傷が色濃く残る時代、スペイン中部に位置するカスティーリャ地方である。


○まずこの映画の魅力を考えてみると、

  • 世界観の広さ、奥深さ
  • 繊細な演出
  • 絵画のように印象的な画(光と影)
  • ロケーション(場)の力
  • 主人公アナ・トレントの存在感

といった点がおおまかに挙げられると思う。


●世界観の広さ、奥深さ
この作品の基本軸は、一人の少女の「通過儀礼」、精神的な成長物語といえる。
しかし、そこで描かれる物語は、主人公アナの個人的なエピソードに留まらず、彼女を取り巻く人々の営みや、周囲の環境、土地の持つ記憶、ひいては政治・歴史的な背景を含めた時代性にまで拡大していく。そこに監督の抱く世界観の広さ、深さが見て取れる。
例えば、アナの目を通して描かれるいくつかのエピソードがある。
  • 映画「フランケンシュタイン」から導き出されるアナの疑問=村外れに住む精霊の存在
  • 脱走兵(=フランケンシュタイン、精霊)との出会い
  • 毒キノコに興味を持つ描写(踏みつけられるキノコに対するアナの視線)(家出のあとにキノコを手に取る。誘惑。)
  • イザベラのいたずら
  • 父親に対する不信、家出

といったものだが、そのひとつひとつには(アナが)それまで属していた幼い少女(=子供)の世界では気づくことのないもの

  • 「殺人」「政治」「戦争」といった人間の「負」の部分、傷跡
  • 「生」「死」とは何かという人間の普遍的な問題
  • 「精霊」などの精神的なもの、目に見えないものの存在

との出会いが含まれている。

ひとつの物事、人物を描くうえで、その背後に潜むもの、背景に広がるものの存在が繊細な形で内包されている(≠説明描写)。だからこそ、奥深い、広がりのある作品になっているのではないだろうか。

         
*その最たるエピソード×モチーフ*
「フランケンシュタイン」と重ねられた「兵士」の存在。


[フランケンシュタイン](映画の中のキャラクター)
          ↓↑
[村の外れに住んでいる精霊](イザベラの嘘)
          ↓↑
[ケガをした脱走兵](内戦の残党、兵士)


このイメージの結びつきが、物語をいわゆる「不思議な体験談」「ファンタジー」といった全くのフィクションにせず、しっかりと現実の世界に帰納する大人びた視点を持たせているのではないか。


●繊細な演出
そういった物語の構築の仕方(作品の骨格部分)が前面に出すぎることがなく、
これみよがしな演出、わかりやすい声高な主張もない。丁寧さ、繊細な表現(≠弱さ、曖昧さ、ナイーブさ)というのもこの作品の魅力のひとつだろう。

登場人物(とりわけアナ)の表情、仕草の変化、振る舞いや、アナとイザベラのやりとりの自然さ、父親役の俳優の抑制された確かな演技は見るたびにその都度「発見」がある。
家族全員で食卓を囲む際、父親がアナに時計を見せる場面は、その演出の巧みさがよく現れているシーンのひとつではないだろうか。

時代性を踏まえたうえでの、周囲との環境、人間同士の関係性が自然な形で見て取れるからこそ、ひとつのシーン、場の演出に説得力を感じる。



●愛情の豊かさ
各キャラクターにむけられた眼差しには、常に暖かさを感じずにはいられない。村の住人ひとりをとっても、そこには何か確固たる存在感がある。
同時に、登場人物の抱える複雑な心情にも注目したい。
父親の寡黙さ、母親の抱える孤独感(内戦の記憶から生まれるものなのだろうか…??)、アナとイザベラ、姉妹の微妙な年齢の差。(自我が芽生え始めた段階のアナと、「女性性」を意識する段階に踏み込んでいるイザベラ)
家族だれをとっても、一面的、紋切り型の人物にはなっておらず、そこには彼らの営みを見つめようとする暖かな視線がある。


●ロケーションの魅力
●絵画のように印象的な画作り
これはもう作品を見れば一目瞭然…というくらい素晴らしい。
  • 廃屋・井戸のある荒地(アナと兵士が出会う家屋)
  • 蛇行する道
  • 列車の線路
  • キノコの生える緑地
  • 石造りのアナたちの家(アナたちの部屋、書斎、ミツバチの巣型の窓枠…)
  • 光と影の捉え方(暖色系のライティングの色味、影・闇の深み)
  • 奥行きのある空間の捉え方
  • 空間構成、地平の広がるロングショット…

数えあげたらきりがないけれど、この作品を見ると「場のもつ力」の凄さに感動させられる。


●アナの魅力
奇跡!!…ありえない存在感。
イザベラとのお互いに異なった魅力が、映画全体の印象をも変えるくらいに際立っている。


○以上、大まかではあるものの、この「ミツバチのささやき」という稀有な作品の魅力について考えてみた。見る人によってその魅力は異なるであろうし、それこそがまたこの作品の、ビクトル・エリセという作家の器の広さ、深さであると思う。

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2007年5月2日

第22回「台風クラブ」

舞台は山間に田んぼの広がる地方の町。そこに住む中学3年生の男女が主人公の作品。
彼ら彼女らの思春期ならではの微妙な心象と狂気を、近づいてくる台風とともに描ききった青春映画の傑作。


メタファーというといまいち的外れになってしまうけれど、言葉では伝えきれないテーマや、目には見えない登場人物の心理をどう具体的なカタチに置き換えて表現するかが、映画の真骨頂のひとつなわけで。

台風の到来とともに主人公たちの心の揺れ動きが始まり、次第に強さを増していく雨風に巻き込まれるように個々の感情が溢れ出し、勢いづく暴風雨の中で絶頂を迎え、そして唐突に祭りは終わり、嵐の過ぎ去った後の静かな時間が流れる。

あまりに鮮やかで、なんとまぁ映画的なアイディアなのだろうと感動する。選んだモチーフとテーマ、そしてそれを形にするために成された演出が、物凄く密接に結びついている作品だなと感じた。


また、先生役の三浦友和を筆頭とした大人のキャラクターが、主人公たちの記号的な「敵」にならずに、人間としてリアルに魅力的に描かれている点にも演出の鋭さを感じた。
物語を押し進めるための都合の良さは、往々にして見る側が冷めてしまうひとつの要因になると思うけれど、この作品では、嘘をつくべき部分とリアリズムに徹する(リアルを目指す)部分とが絶妙に絡み合っていたように感じた。一見突拍子もないように思える主人公たちの行動も、青春期の危うさが根っこにセットされているぶん納得させられてしまうし、作品全体のボルテージをあげる強い力になっている。
嘘をつくことにしっかりと責任を持っている監督なのだろう。


映像手法についてはあまり詳しくないので省略するけれど、独特の長回しや、音楽にのせて描かれるシーン毎の軽快さに乗せられながら、この作品でもっとも感動したのは、しっかりと筋の通った映画の発生のさせ方、嘘のつき方であったかもしれない。

(相米慎二 監督/1984年/日本/カラー/115min)


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2006年1月10日

第21回「音のない世界で」

 二コラ・フィリベール監督による、ヨーロッパの国で生活する聾(ろう)の人々を追ったドキュメント。彼らの日々の生活、育ってきた環境、生きてきた時間などを、手話によるインタビューを交えつつ丁寧に描いていく作品である。

 この作品の素晴らしさは、何と言っても出演する聾(ろう)の人々の魅力によるところが大きい。ともに聾者でありながら結婚した若い新婚夫婦、聾者の歴史をひもとく語り部たる老人、学校で発声・発音の仕方を習う子供たち、幼いころ周囲に大人の聾者がいなかったため、耳の聞こえない自分は成長したら大人になれずに死んでしまうのでは…と不安がった女の子、手話で合唱するコーラス隊などなど、他にも愛情を感じずにはいられない人々が何人も登場する。

 彼らはみな、耳が聞こえないことを嘆いていない。中には辛い経験を「語る」者もいるが、それでも、彼らは自分の境遇を受け入れているように見える。そして、各々自分の経験したエピソードをまじえながら、音のない世界で何を感じ、どう生きているのかを率直に教えてくれるのである。(老人は、聾者の利点を自慢げに説きさえする!)

 また、そんな彼らを取材する制作者側のスタンスが、より一層その魅力を引き立たせ、この作品を明確なものにしていることにも気づく。

 オープニング(手話のコーラス)から感じられることだが、場面を盛り上げる音楽は一切なく、録音された音声も極力抑えられている。そして、被写体をじっとみつめるカメラの視点。あくまで彼らに寄り添い、その「話」に「耳を傾け」、音のない世界がどういうものなのか、住人である彼らが何を感じているのかを「聞こう」とする。そしてそれを「聞く」ことで、彼らの感じている世界に一歩でも近づこうとする(鑑賞者を近づけようとする)のだ。

 不謹慎と思われることを承知でいうなら、僕はこの作品を見て、ふと、彼らと同じように耳が聞こえなかったら…彼らのような世界の感じ方を自分もしてみたいと思った。それぐらい、この作品と、作中に登場する人々の「話」に引き込まれてしまった。

 もちろん、彼らは作り手側に意図的に選ばれた人々であるはずだし、耳の聞こえない人々がみな彼らのように率直な人間ではないかもしれない。しかし、『音のない世界があり、彼らはそこで物事を感じ、生きている。そして、見方によっては、それは魅力的な世界でもある。』と語られたら、少なくとも、耳が聞こえない=聞こえる人間より劣っている、なんて一面的な捉え方は崩れるだろう。

 この作品は、聾者の持つ歴史や文化、生活を通して、耳の聞こえる人間とは違った、また別の世界があることを提示する。そうして、(現実の)世界てのは、そう単純ではないのだということを登場する人々の魅力でもって教えてくれるのだ。(注・逆に、耳が聞こえない=「美徳、個性」だ何ていうきれいごとも決して言わない。苦労や不安があることもないがしろにしていない。そのバランス感覚が、また素晴らしい。)

 自分の生きている、知っている世界は自ずと限られてくるわけだが、例えば、その限られた世界をほんの少しでも押し広げられる瞬間もある。この「音のない世界で」という作品は、世界は多様であるというメッセージとともに、そんな瞬間を実感させて
くれる、とても秀逸な作品である。

(ニコラ・フィリベール 監督/1995年/フランス/カラー/99min)

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