2009年12月24日
「動くな、死ね、甦れ!」のヴィターリー・カネフスキー監督作品。
冒頭から吹雪が吹きすさぶ凍えた世界。
靄(もや)の中から現れるのは、日本兵の捕虜たちだ。彼らの口ずさむ故郷を偲ぶ歌には、どこかに死の影が付きまとう。いや、彼らだけでなく、モチーフのそこかしこにその影は感じられる。貧しく荒んだ環境、暴力。寒々とした海(河?)に打ち寄せる波などなど。
でも、たくましく生きる少年と、彼をののしり尻を蹴飛ばしながらも世話を焼かずにはいられない少女の姿は、あまりに鮮烈で愛おしい。
少女と結ばれた後、広い世界を見たいと言わんばかりに少年は旅立つ。
流れ着いた先でしたたかにたくましく生きていく少年。
少年が新たな場所に向かうとき、少女が守護天使として(まさに唐突に)現れる。観客に笑いがこみ上げたのも束の間、少年は少女を傷つけてしまい、二人の運命は、一瞬交わった後あっけないほどすれ違ってしまう。そしてそのすれ違いは二人にとって決定的なものになる。
それからは少年とともに彼岸に向かって足を踏み入れていくしかない。
炎に包まれながら四散するネズミ、建物の周囲を四つんばいで回り続ける裸の男女、棺おけに入った少女の幻影。
ぞわぞわする「向こう側」のイメージ。
前作とほぼ似通ったモチーフ、キャラクター(主演俳優は前作と同じ)。年頃を迎えた少年・少女の通過儀礼的な要素が織り交ざっている分、普遍的なドラマ性も感じるので、前作よりも見やすいかもしれない…が、やっぱり危うい魅力は健在だ。つじつまなど後回しの、グルーヴ重視の演出。喜劇的な笑いが一転、どぎつく露悪的な生々しさに結びつく様は、この監督の作品でしか味わえない。
ラストシーン、少年は岬の前でカメラに向かって語りかける。この刺青は民族の証。下を向いた三角形は少女を示し、うえを向いた三角形は少年を示す。お互い交わらないけれど、お互いを必要とする。(うろ覚えながらそんな感じだった。)
傑作、やばいものを見ちまった…。
2009年12月22日
「僕は、自分の子供時代を甦らせるため現在という時の流れを止めた。
そして止めることは死を物語る。
更にそれをフィルムの中に起こすため僕はもう一度甦ったんだ。」
パンフレットに引用されたヴィターリー・カネフスキー監督の言葉が、まさにこの作品を物語っている。見終わったあとに残る生々しさは鮮烈だ。
カメラの前で、いまその瞬間を生きているかのように振舞う少年と少女。
ひょっとしたら二度と同じものを撮ることはできないかもしれない一回性の魅力が、しっかりとフィルムに刻まれている。
けれども同時に、喜劇的な要素を盛り込んだ演出も冴えているし、(捕虜が口ずさむ)日本の民謡など、音の扱いも印象深い。
単にドキュメントとして少年らの姿を追い続けたというわけではなく、町に住まう人々、土地性、時代性まで広がった世界が、凝縮されて作りこまれているのだ。
ドキュメント性プラス、作家の経験した時代・場所・出来事を再構成した結果生まれる濃い生々しさ。
それが、この作品を「撮れてしまったもの」=奇跡のように思わせる。
撮れてしまったものの強さは、いくら言葉を尽くしても足りない。ただ、見て、体験するのみ。見終わったあとの「なんじゃこりゃ…!」という感覚は、まちがってもこれを模倣しようとか思わせないほどに鬼気迫っている。
2009年10月21日
(作品の内容に触れています。)
「移り行く時の流れ」と聞いて、人は何を感じるだろうか。
行く河の流れは絶えずして…のような無常観、仏教的な世界観だろうか。はたまた哀愁やノスタルジー、もののあはれ…?は少し違うか。
自分は「移ろいゆくもの」に対して情緒を感じるのだけれども、それはやはり日本人的美意識のなせる業なのかもしれない。
オリヴィエ・アサイヤス監督作品である、この「夏時間の庭」という映画も「移ろい行く時間」がテーマのひとつになっている。
宣伝文句としては、いわゆる『泣き』の物語と紹介されているが、果たしてそういう生易しいものではない。
失われたものに対する愛情や哀れみは確かに存在するが、そうした感情の起伏は、(印象的ではあるものの)短いショットの中に一瞬垣間見えるのみ。登場人物にも、観客にも、感傷に浸る間はほとんど与えられない。
母の死の余韻も覚めやらぬ中、それぞれの人生を生きていくために動き続ける登場人物たち。観客は、その動いていく様をつぶさに目撃することになるのだ。
移動し続けること。停滞しないこと。
変わり行く状況、降りかかる困難に「対応」していくためには、立ち止まってはならない。
例え大事なものを失ったとしても、思い出に捕われてはならない。それもあくまで変化の中の一部として受け止め、次の方向に動き出さなければ。もはや、変化それ自体が、現代を生き抜いていくためには必要なことなのだ。
そう言われている気がした。
正直言って、ラストのパーティシーンは孫世代への批判として描いて欲しかった。そうであれば、物語としてどんなに「わかりやすく」解消されたことだろう。
(それ以前のシーンで、長年夫妻の家に使えた使用人のエロイーズが、邸宅を訪れる描写がある。彼女は、空き家となった邸宅を窓の外からじっと覗きこむが、鍵がないのか、許可がないのか、中に入ることはできない…なんと皮肉なことだろう!思い出の場所にすがり、感傷にひたることを望む老婦人がそれを許されず、逆に「場」の記憶を享受しないキッズが、堂々と招待を受け、ロックとアルコールで楽しめるなんて。)
しかし監督は、そうした手段はとらない。孫娘は、祖母との記憶を胸に刻みながら、すぐに庭の向こうへと歩み始める。カメラはそんな彼女たちを俯瞰して捕え、彼女たちの行く末を見つめながら映画は終わる。やはり、次に向かって動き続けなければならないのだ。そう言わんばかりに。
2009年9月16日
クラシックな作品として後世に渡って存在し続けることを約束された映画などない。古今の名作、傑作、は数多あれど、それはいつでも「現在」を生きる作り手の、自身の置かれた環境や時代に対するアクションやリアクションなのであって、逆に言えば「現在」と格闘しなければ、時代を超え、世代を超えて受け継がれていく作品を生み出すことなどできない
…などと聞きかじった言葉をぼんやりと思いながら、でも有無を言わさず時代を超えて多くの人々に愛され続ける作品の‘匂い’てのは確実にあるのだよな…とも考える。
スペインの映画監督:ビクトル・エリセの3本の映画(と珠玉の短編1本)は、そんな匂いを感じさせてくれる作品ではないだろうか。
例えば、「ミツバチのささやき」にある後半部、主人公アナ、姉イザベラ、父と母が食卓を囲むシーン。父親が、自分の所有していた時計を脱走兵に渡した犯人は誰なのか、家族全員を試していく場面がある。
そこでは、おもむろに時計を取り出した父の振る舞いと、それを見る家族ひとりひとりの視線の交錯しか描かれない。しかしその短い無言のやりとりの中に、家族それぞれの繊細な感情の変化(家族を疑わざるを得ない父の悲しみと、それが娘アナであったことへの驚き&秘密がばれたと瞬時に悟るアナ)が、極上のサスペンスとして描かれる。
あるいは、「エル・スール」において、父と(成長した)娘がレストランの食卓で‘最後の’会話を交わすシーン。
他愛もない近況報告の体で始まった二人の会話は、娘の思い出話をきっかけに、もはや両者の関係が昔のように無邪気なままではいられなくなったことを見事に表現している。会話の中で片手をひらひらさせた父が、ふと室内に響き始めた音楽を指し示す仕草は秀逸だ。
このふたつのシーンは、物語を転換するターニングポイントとして機能している。
一つ目の例で言うなら、娘のアナが、父親=「絶対的な正しさを持つ父性」に対して疑いを抱き、その支配から脱して自らの世界観を発見するきっかけになっているし、ふたつ目の例、レストランでの‘最後の会話’は、娘との関係をなんとか繋ぎとめようとする父親の弱さ、悲壮感を浮き立たせ、その後の父親の自死を予感させるのである。
けれども、そうした物語構成上の問題より、何より、ビクトル・エリセ監督がその演出において見るものを説得するのは、目に映るもの、目には見えないもの、語るべきこと、語らないこと、そのバランスを巧みに選択し、繊細に表現しているからではないだろうか。
映像で表現できる事は、目に見えるイメージと、耳に聞こえる音響の集積であり、それらは時間軸を伴って、ひとつひとつ(ワンショットずつ)積み重ねられていく。そうして物語の叙述が生まれ、登場する人物の心情描写(の変化)が描かれ、テーマや思想が反映されもし、メッセージが込められうる。そんな当たり前かもしれないことに素直に気付かされるのだ。
そして、描くべきイメージを選ぶことは、同時に、描かずに(見る側に)想像=創造させる物事を選ぶことでもある。のだと、気付かされるのである。
うろ覚えのインタビューを引用するなら、エリセ監督自身が、日本の溝口健二監督の映画作品を指して「人生を凌駕する作品が存在する」と答えていた。ビクトル・エリセ監督の作品にも、当たり前に同じ言葉が当てはまると思う。
エリセ監督作品に感じるクラシックな‘匂い’は、甘美なノスタルジーにのみ支えられたものではなく、そこには確固たる作り手の意志に否が応でも吸い込まれ、取り込まれるくらいのヤバさが存在している。
そのヤバさは、決して派手なものではなく、まさに「ささやき」声のように耳を澄まさないと気付けないようなものであるし、目を開いていないと見過ごしてしまうことかもしれないが、少なく見積もっても、心が洗われるくらいの、極上の体験なのである。
(蛇足:極上の疑似体験は、見る側が作り手の提示した世界観に取り込まれ、その広い世界の一部になることでしか完成しない。だから双方向メディアの手軽さなんぞに満足できはしないし、3Dヴァーチャルの仮想現実なんかお子様のお遊びだと思う。いまは…。)
2009年4月16日
ダメ工房のメンバー、よっつこと吉村真悟監督の作品。
事故によって昏睡状態に陥った主人公:素子は病院に入院。顔に受けた傷が元で現実を悲観し、目覚めたくないと思い始める。そんな彼女に対して、周囲の人々は何とかして彼女を起こそうとするのだが…というものだ。
このほど発売されたDVD「ココダケノハナシ」に、オムニバス形式の一話として収録。撮影日数一日限り、尺も10分と制約を課せられた中で完成されたものである。
しかし侮るなかれ。
まずは冒頭、出演者のテロップが流れる数カットと、オープニングタイトルを見るだけでもいい。そこからしてすでに何やら不穏なのである。テンポのいいナレーション、インサートされる主人公の妄想シーン、確かにそれらは小気味の良いポップな風景に見えるが、騙されてはいけない。例えば、(主人公の)母親と、同級生が病院の待合廊下で話すシーン。引きの位置にカメラが置かれ、まるでそこには人格があるかのように、誰かの目で覗いているかのごとくカットが切り替わる。あるいは、ベッドから起き上がろうとする素子を俯瞰視した映像、お別れを言いに来た同級生の手元のアップも、(ネタバレになるのであまり言えないが)見る側にドキリとさせる印象を与えるのだ。
それは、例えばホラーやサスペンス映画のように、ジャンルに集約されるものではない。こちらの予想の範疇を微妙にはみ出し、超えていくことで生まれる「何か決定的にとんでもないことが起きそうだという期待感」や、もしくは「未知のものに対峙したときの恐怖感」=<不穏さ>なのである。
では、そうまでして期待感、恐怖感をあおっておきながら、監督がラストに見せるものは何か。
『想像の世界のほうが楽しい』と逃避し続ける主人公に対して、監督は、「現実は直視しなければいけない…」という声高な主張ではなく、「まぁ現実はこんなものだから見てみなよ。それから考えよう。」という親しみと優しさを込めて物語を終えるのだ。
虚構として散々嘘をつき倒しながら、安易に「良い話」をこしらえることはせず、一方で、所詮は虚構だからとシニカルに気取るのでもなく、現実世界への距離の取り方をまっとうすぎるくらい誠実に見せて締めるのである。
一見不穏な雰囲気は、果たして大した問題ではなかった。ラストに見せる優しさと、冗談とも照れ隠しともつかない茶目っ気こそが、この作品の持ち味なのだ。…そう考えてふと気付く。じゃあ冒頭の不穏さはなんだったのかと。ああ、いつのまにかやっぱり予想を裏切られていた。不穏である。この監督は不穏である…。
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中村 武史
nakamura takeshi

大里 圭介
oosato keisuke
プロフィール
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