2004年2月24日
「笑っていいとも!」をいまだかつて一度も見たことが無いという人は、割とまれじゃないだろうか。家にテレビは置かないと公言している皇太子の弟さんなんかは、ひょっとしたら見たことがないのかもしれない。なにせ、20年以上、土曜日を除いて毎日放映しているわけだから、確率的にもうっかり見てしまうだろう。今や、テレビ番組の代名詞と言ってしまっていいと思う。
司会はタモリだ。北朝鮮と韓国の駅内アナウンスの違いとかをやるタモリだ。だけれども、確か山下洋輔かなんかが言っていたけれど、「笑っていいとも!」のタモリは、「必殺技が使えなくなったウルトラマン」に等しい。とりあえず、昭和天皇の真似とかはご法度だし、できるのはせいぜい「生まれたての仔馬」とか「翼をたたむハゲワシ」とか、そういう安全なネタばかりだ。だから「笑っていいとも!」というのは、いかにも健全で、世代を問わず(と言いつつ割と若者向けだが)、かといってNHKのように時代に遅れてもいない、という優等生的番組なのである。
この「ワラッテイイトモ、」という作品は、一言で言えばそんな「笑っていいとも!」の映像をばらばらにして再構成した、映像コラージュ作品である。作者のK.K.という人は、どうやら世間で言う「引きこもり」らしく、家でずうっとテレビなんかを見て過ごしていたらしい。よく言う言い方だけれども、自分と世間をつなぐものがテレビにしか無い、という状態だ。
なぜ数ある番組の中で「笑っていいとも!」を選んだのだろう。毎日やってる、TVの代名詞とされる長寿番組だったら、別に「ニュースステーション」や「世界の車窓から」でも良かったし、それこそNHKの番組群なんて最高だろう。作者自身は、実は「笑っていいとも!」にこだわっていたわけではない、なんていう話を聞いたことがある。しかし、これは僕の主観だけれども、「笑っていいとも!」意外ではあまりおもしろくなかったと思う。なぜなら、「笑っていいとも!」はバラエティ番組だからだ。真面目なニュース番組なんていうものは、こういう場面でコラージュの対象になりがちで、取り扱い方も、その結果も、わりとやり尽くされた感がある気がするからだ。「笑っていいとも!」の場合、ズタズタに再構成されたらどうなるのか、少なくとも僕にはさっぱり想像が付かなかった。
しかも、他のローテンションな番組群に比べて、「笑っていいとも!」のテンションの高さは、引きこもりである作者と対照的に際立って、まるで彼をあざ笑っているかのようにも見える。「笑っていいとも!」はその内容からも「世間」の象徴というふうにも思えるけれど、それを映像コラージュという仕返しによってあざ笑い返すさまは、ますますむなしい。こういう演出は、例えばNHKのニュースなんかでは難しかっただろう。
さて作品は、最初にまず「笑っていいとも!」という番組をおもちゃにしてズタズタに再構成し、引きこもりの暇つぶし加減を見せ付けてくる。その暇つぶし加減というか、バカバカしさ加減が、僕には2ちゃんねるのA.Aとか、おもしろFLASHに通じるところがあるという気がする。確かにおもしろいんだけれども、それを作っている膨大な時間と労力と、背中を曲げている姿を想像すると、どこか背筋がぞうっとするような、あの感じだ。あれだけで、K.K.という制作者がどれくらい引きこもりなのか、どれくらいTV漬けな毎日だったのかというのがすぐ分かる。
ただこういうのを見ても、不思議と「どうだ、おもしろいだろう。お前ら笑え」という感じがしない。もちろん笑えるには笑えるのだが、むしろ、なにかそういうものを越えて、一抹の恐ろしさを感じる。何かとんでもないやりきりを感じるわけだ。この藁にもすがるような必死な感じはなんなのだろう、と思う。
ところで、映像コラージュというのは、実はそんなに物珍しいものではなく、しばしばやられるものだ。既に映像が持っている意味をばらばらにして、別の意味を持たせる、という映画で僕が知っているものに「アトミック・カフェ」という作品がある。これは核戦争のバカバカしさを米軍などの公の映像のみを構成して作った、とんでもないブラックユーモア作品である。これは、もともとあった公の映像が核について嘘ばかりついている映像だから、それを組み合わせることである種の「真実」が見えてくる、という仕掛けだ。
ところがこの「ワラッテイイトモ、」はその逆で、実際の映像を使って演出されるのは「虚構」と「妄想」の世界である。それを象徴的にあらわしているのが、TV画面にいるタモリとの会話である。例えば、タモリが「そっちの人は何やってんの」と聞く。彼は「映画とか撮っています」と答える。すると矢継ぎ早に、「お前、映画を作ってるみたいなのに、実際はね、過去の映像に違う索引作ってるだけ」と追い詰めていく。
これらは、K.K.の頭の中で、勝手に繰り広げられたやりとりである。もうひとりの自分と会話しているのか、彼にとってのTV像と会話しているのか、どちらにせよ自分を追い詰めていく言葉を労力をかけて作っているのは紛れも無く作者自身である。自分で自分のフェラチオをするような、妙な循環、自己完結を感じる。
それで彼はこのあと、実際にアルタ前に行って「笑っていいとも!」のオープニングに映ると言うパフォーマンスをする。その後、自分が映っているオープニング映像を繰り返し流した挙句、自分が映っているところにマーキングまでしてしまう。この自己アピール具合はなんだろう。そんなことをしたって、誰も気が付かない。ものすごく自己完結的な自己アピール。誰に対するアピールなのか、その辺がすごく漠然としている。いや、漠然とはしていない、そこにTVという、タモリという、世間という対象がある。しかしそれらがもうあいまいだ。しまいには、彼は「笑っていいとも!」の流れるTVをハンマーで叩き壊してしまう。
しかし寂しいことに、K.K.がどんなに目立つようにマーキングしても、煙が出るほどテレビを壊したとしても、「笑っていいとも!」という番組が消えたわけではないし、世間が同じように番組から離脱したいと思っているわけではない。彼が壊して離脱したのは、彼が勝手に作り上げた、「笑っていいとも!」と同じ形態をとった虚構の番組と妄想の世間だったのではないかという気がする。だからそのハンマーは、すべてを壊したようで、実は残像拳を使った孫悟空に向けた、天津飯のパンチと同じである。だから、ものすごくむなしいし、彼がどれだけ動いても何も進展も変化もない。彼が自分の存在について確認しようとすればするほど、立ち位置がぐらぐらしていることが分かってしまう。
このむなしさを感じるからこそ、この作品は必然的に生まれたのだなとも思う。世間と自分をつなぐものがTVだけ、という状況は、そのTVが妄想になってしまった時点で崩壊してしまった。TVは両者の真ん中で架け橋の役目をしているのではなくて、ただ自分の中にあるだけ、ということが分かってしまったからだ。つまり世間からのシャットアウトだ。そこで、水槽から放り出された金魚がばたばたしているように、彼もちょっとばたばたしてみたのではないか。せざるを得なかったというべきか。特に解決するわけでも成果をあげるわけでもない、わりとそういうことはどうだっていいのだ。やることに意味があった。このばたばたは、結構普遍的なばたばたである気が、僕はする。これはとても自覚的なばたばただ。自覚的に、意味が無いことが分かっているばたばただ。しかしそのばたばたしか、とりあえず自分について確認する方法が無かったのではないか、と思う。この作品の必死さは、そういう彼の中の必然性に起因している気がする。
(K.K. 監督 /2003年/日本/カラー/46min)
2004年2月20日
魯菜っていうストイックでおいしい健康料理をつくるおばあさんのドキュメンタリーである。おばあさんはいっぱしの料理人で、中国の料理学校に客員教授に招かれるくらいだから、そりゃえらい大物である。
中国生まれのおばあさんは、日本で魯菜料理屋をやってるけれど、死ぬ前に中国で魯菜のお店を開きたいという夢がある。80歳近いのに夢があるのはすばらしいことだ。だけれども同じ料理人で夫のおじいさんは生まれも育ちも東京だもんで、中国に行くにはかなり抵抗があるらしい。でも一応下見と料理学校の招待をかねて、中国に行くんだけれど、そこの料理学校では、魯菜って料理が若者受けしないからといって、魯菜の名を使いながら全然違う料理を作っている。そんな現状に、おばあさんは愕然とするわけだな。
でおばあさんおじいさんと、料理学校の校長夫妻が舌戦を繰り広げる。「この軟体野郎めが」「き〜っ言ったわね、この腐れポリデント!」なんて話をするわけがなく、実際は「おみぃら、そんなのぶっちゃけ魯菜じゃねぇ おら絶対魯菜リスペクトしてっからぁ」「ばあさん、そりゃ懐古主義あるよ。料理は時代に応じて変化するンダハスムニカ」ってな感じでした。言葉尻は主観が入ってますが内容はこんな感じです。
料理学校の校長先生は車の中で常に爆音でダフトパンク流しているので、かなりニューウェーブな感じで、きっとびんびんなんだろう。そういう時代に対するアンテナがびんびん。まぁ、伝統ってものがあって、それを守る老人に対抗して若人が新しいものを見つけていこうとするという図式は、いつの時代の、どの分野にも繰り広げられたことなんだろうなあと思う。まぁこうなると、どっちが正しいってわけじゃない。どっちも正しいんだろうなあ。
だけれども、この作品はおばあさんが主人公なだけにおばあさんについ情が入ってしまうね。料理学校の勢いが圧倒的なもんだから、おばあさんの曲がった背中とかよたよたした歩き方が、すごく孤独に見えて切なかった。おばあさんはたった一人なんだなぁと。おばあさん、たったひとりで「魯菜」っていう伝統と哲学を背負っちゃって、なんかすごく切なかったよ。すごく後を押して上げれたらと思うけれど、彼女は画面の中にいるから何もしようがないんだよな。思うことはできるけれどね。
そんなときにおばあさんを実際に救っていたのはおじいさんだったな。中国行くの嫌だって行ってたのに、中国のホテルの夜、おばあさんが「ますます中国でやらなきゃいけないことができた」って言うと、おじいさんが「・・・俺はお前と行動を共にするよ」だって・・・。ひゅ〜ひゅ〜!!ってそんな軽々しいもんじゃなかったけれど、老人同士の愛というか結束は、ある意味安めぐみよりずっとロマンチックだなと思った。赤瀬川源平が言っていたことの意味がすごく分かった気がしたよ。
老いってのは衰えと言うこともできそうだけれども、パワーそのものだなと。余計なものを余技落とした、ブランクーシの彫刻宜しく洗練された、純な存在なんだなと思った。ブランクーシといえば、予備校時代にすっごい仲のいい、じいさんの彫刻家2人のドキュメンタリーにはほろりとさせられたなぁ。片方の彫刻家は、もう足がダメになって、車椅子で手をぷるぷるさせながら、執念のように粘土をつけていくという姿があった。あの彫刻家の姿と、今回の料理人のおばあさんの姿は、僕にはとてもだぶって見えた。
(李纓 監督/2003年/日本/カラー/134min )
2004年2月15日
コロンバイン高校での銃乱射事件の犯人は、マリリン・マンソンのファンだった。それで、「マリリン・マンソンが事件の原因なので、マリリン・マンソンは害悪」という訳の分からない考え方が、世の中を支配したことがあった。ちょうど僕が高校生のときである。
そういえばその頃、カタブツの英語の先生が、クラスにカセットデッキを持ってきて、マリリン・マンソンのとある曲を流し始めた。流す前と流し終わった後に、「マリリン・マンソンは有害な歌手であることが分かったでしょう、だから聞かないようにしましょう」と訓示めいたことを言った。たまたまマンソンを聞くことが多かった僕は、その偏見に満ちた訓示に妙に腹が立って、先生を指差して「それはおかしい、そういうことを教壇で言うのはおかしい」と軽く口論になった。その後も気持ちが収まらなかったので、放送委員という立場を利用して、わざと昼放送でマリリン・マンソンを流したりした。
こうしてマリリン・マンソン・ブームが過ぎ去ったいま、改めて振り返ってみると、彼の音楽を聴くことは、健全すぎるくらい健全なことのように思える。ああいう音楽なり芸術なりが、心のわだかまりやネガティブな要素をうまく昇華させてくれることもあるだろう。事件の原因は、もっと他のところにあったのではないかと考えてしまう。
「ボーリング・フォー・コロンバイン」という作品は、コロンバイン高校の事件から浮かび上がる、そういう身近な問題をじりじりと考えたエンターテイメント作品である。マリリン・マンソンのことについては、彼は作品でこのようなことを主張している。「もし、事件の原因が、犯人がいつも聴いていたマリリン・マンソンだったとしたら、犯人が事件の前にしていたボウリングは、なぜ事件の原因になると考えられないのか?それこそ直前にやっていたことなのに」と。
作品は、コロンバイン高校の話からはじまって、アメリカだけが飛びぬけて銃で殺される人の数が多いことに触れて、それは一体なぜなんだろうと考え始める。そして最終的には、マスコミがさんざん人を脅かすようなことを煽って、人々が他人のことを信用できなくなっているからだ、という結論に至る。なぜマスコミがそんなことをするのかというと、その煽りによってもたらされる経済利益が、一部の人たちに向かってゆくからだろう。マリリン・マンソンを無理やり悪役に決め付けたのも、そういう「恐怖の刷り込み」と深く関係があると言われている。だけれど、この作品は、そういう真面目な主張を、ずいぶん面白おかしく伝えようとする。
例えば、アメリカ人は他人に対して過剰に怯えるということの例として、アメリカではドア鍵をいくつも掛けるということを紹介する。それに対してカナダでは、鍵をまったく掛けないことが分かる。すると、監督は抜き打ちで各家庭のドアを勝手に開けてゆく。もうこれだけで、思わず笑ってしまうのだが、その後勝手にドアを開けた後、住民と軽く挨拶をして一言、「僕を撃たないでくれよ」。するととっさに、「撃つわけないじゃないか」という返事。それは、例えば日本人がハロウィンのパーティの日に撃ち殺された事件をも連想させる、かなりブラックなジョークだ。
だけれど、こういう重要な事をおもしろおかしく伝えるからこそ、事の本質がより感覚的に伝わるということはあると思う。「僕を撃たないでくれよ」という言葉は、監督個人の言葉ではなくて、一般的なアメリカ人の感覚として、わざと口にしたものだろう。しかし、カナダの住民が、彼個人の言葉として出した「撃つわけないじゃないか」という返事は、監督の質問に呼応して、一般的なカナダ人の感覚を代表する言葉になっている。彼が冗談感覚で言った機転の利いた一言だったからこそ、最も分かりやすい答えが返ってきたし、このやり取りは二国の意識の違いについて、もっとも本質的に表していると言えるだろう。
この作品はこんなふうに、全体的に娯楽にまみれた、ずいぶんエンターテイメントな味付けで、彼の主張を解きほぐして紹介する。放送禁止用語連発のお下劣アニメ「サウス・パーク」をつくったお兄さんによる、独断と偏見に満ちた「アメリカ人が銃を持つようになった歴史」のアニメ。各国の年間銃殺害者数を示すための、過剰に演出された映像とテロップ。こうしたユーモア感覚に溢れた映像が、巧妙に練られたポップなテンポに乗って、次々と打ち出される。見ているほうは、どちらかというと感覚的に、あるいは扇動的に、アメリカ銃社会への疑問や憤りを感じるような仕組みだ。
ここで、自分で書いた言葉をもう一度繰り返してみたい。この作品は、「どちらかというと感覚的に、あるいは扇動的に、アメリカ銃社会への疑問や憤りを感じるような仕組み」であるという言葉だ。・・・僕は、このやり方は、いわゆる彼が批判している、「マスコミがさんざん人を脅かすようなことを煽る」手法と、同じやり方じゃないか、という気がしてならない。この作品から感じられるアメリカン・テレビショー的な部分、妙にポジティブなロックンロール。彼は意識的にそうしたのではないのか、と想像が膨らむ。
それは、よく考えずに受け止めると、致命的のようにも捉えられる。「オマエも一緒やんけ」と突込みが入るかもしれない。だけれど、僕はそこに、どちらかというとポジティブな印象を受ける。そこには、彼がアメリカ人であるということ、もっと言うと、実際にアメリカでTV番組を作っているジャーナリストであるという彼の立ち位置を、強く感じさせているからだ。彼は、この問題を外側から指摘するのではなく、内側から、内側のやり方で、追究していきたかったのではないだろうか。彼は、きっと僕らが思っているよりもずっとこの問題に危機意識を抱いているのではないかなと思う。現実的に、いまのアメリカ国民に目を覚まさせる方法を模索していたのではないだろうか。
そういうふうに考えると、彼にとっては、これはドキュメンタリー映画ではなく、活動家としての宣伝ツールに過ぎないという気がする。もしこれが、遠巻きに中立とか公平とか言っているようなディレクターだったとしたら、コロンバイン高校の被害者のためにKマートの銃弾を撤去させようとはしないだろう。全米ライフル協会の会長さんに、銃で殺された少女の写真を持って、「この写真を見てやってください」と嘆願したりはしないだろう。この作品にただ映るのは、自分の思う正義のために、自分の立ち位置から活動をして、それを達成させようとする、ひとりの男の存在である。その存在が、こういうご時世の僕らに、共感を持って迎えられたのではないか。
(マイケル・ムーア 監督/2002年/アメリカ/カラー/120min)
2004年2月6日
この映画は、アメリカのノースダコタ州ファーゴで実際にあった事件にもとづいて作られた作品です。監督がジョエル・コーエン、制作はその弟のイーサン・コーエンで、脚本は二人の共同執筆というかたちになっています。コーエン兄弟の作品はほかに何本か見たことがあるのですが、そのなかでもこの『ファーゴ』は抜群におもしろい。今回はその魅力にふれていこうと思います。
物語は、一人の男が企てる狂言誘拐を軸にしてすすんでいきます。中古車販売会社のディーラー、ジェリー・ランディガードは、資金難から身代金目的の狂言誘拐を思いつく。誘拐するのは自分の妻。妻の父親はジェリーの会社の社長であり、娘や孫には優しいが、自分には冷たい。だから金を貸してくれるはずもなく、そんな中での苦しまぎれのすえの計画だった。ジェリーは、部下の紹介で出会った二人の男にこの犯罪計画をもちかけ、見事(?)妻は誘拐される。計画は順調にすすんでいくかに思えた。しかし、実行犯二人組みのヘマや、敏腕女刑事の出現などによって歯車は少しづつ狂っていき、事態は思わぬ方向にすすんでいってしまう。
ざっと物語をさらってみましたが(文章の拙さは申し訳ないですが勘弁してください)、これだけだとよくありがちな推理ドラマや刑事ものに聞こえるかもしれません。しかし本編を見る限り、そうしたジャンルものの要素はふまえられつつも、あきらかに一線を画しているのです。その理由はなんといってもコーエン兄弟独特のユーモア感覚と、それに裏打ちされた人物描写、卓越した心理描写にあるのではないでしょうか。
例えば、登場人物について考えていくとしましょう。主人公の一人、フランシス・マクドーマン演ずる女刑事のマージは妊娠中です。大きなお腹を抱えながら犯人たちを追っていくのですが、行く先々で食べる食べる。とにかく食べまくり、仕事の出張先ではおすすめの店までを紹介してもらう。仕事中のジェリーのもとに押しかけては、その場に居座りしつこく聞き込みをします。妊婦であるということを武器にしたずうずうしいまでの振る舞いに、気の弱いジェリーは追い返すことができません。
次にそのマージの夫、ノーム。彼は絵描きさんで、目下の目標は切手のデザイン画コンテストに入賞すること。ライバルの動向が気になりながら、マージのために朝食をつくってあげる愛すべきはげおやじ。趣味は釣りです。
犯人側にうつりましょう。二人組みの片割れ、スティーブ・ブシェーミ扮するカールは、とにかく哀れな男です。かわいそうなくらいダメなやつとして描かれる。いろいろな人から「変な顔のやつ」呼ばわりされ、共犯者からは軽蔑されどおし、刑務所仲間からは殴られるわ、ジェリーの養父には銃で顔を撃たれるわともう散々です。まぁそれに見合うだけの間抜けなことをしているし、一方では暴力的で残酷な面もあるのですが、その行動には思わず笑いがこみあげます。
もう片方の実行犯、ピーター・ストーメア扮するゲアは、謎多きキャラクターです。カールとは対照的に寡黙で、いつもうつろな表情をしており、タバコばかり吸っていて何を考えているのか分かりかねる。同時に非常に暴力的で気が短く、気に入らないことがあるとすぐに力で解決しようとする。作中、最も多くの人間を殺してしまうのもこのゲアです。彼に関してはあまり深い描写は感じませんでしたが、残虐であることはたしかでしょう。
最後にこの事件のそもそもの発端、計画の首謀者、ウィリアム・H・メイシーが演じるジェリーにふれます。資金繰りのために詐欺まがいの商売をくりかえし、せっかく思いついた儲け話も社長の義父にとられてしまう。そうしてどうにもならなくなって計画した狂言誘拐でしたが、雇った男たちは勝手に行動してミスを連発。肝心の身代金受け渡しも自分ではなく義父に実権を握られ、何一つ思い通りにならない。カールと同様哀れな存在として描かれるのですが、彼の場合情けなさが前面に出てくる。愚かで小心者の子悪党といった感じです。
主要な人物像をひろっていきましたが、コーエン兄弟が描くキャラクターは、みなどこか変わっています。何かが欠落していたり、ぬけていたり、過剰であったり。そして変わってはいるのですが、なぜか、こんなやつもいるかもなぁと思わされる。コーエン兄弟はそのバランスのとり方というのが非常にうまい。コーエン印のキャラとして作りこみながら、巧みな心理描写をすることで、そこに人間の持っているひとつの側面を浮き立たせているのです。だからこそ一見奇抜なキャラクターでも、リアリティーを感じさせる。それが見事に表現されているシーンを紹介します。
まんまと身代金をせしめたカールは、受け渡しの際のいざこざから銃で撃たれ負傷してしまう。血だらけになりながらいざスーツケースを開けてみると、中には計画よりずっと多くの金が入っていた。そこにはジェリーの小汚い思惑がからんでいるのですが、とにかく予想外の大金を手にしたカールは、相方のゲアがいないのを良いことに差額をねこばばしようとします。しかし、独り占めするといってもこれからゲアのもとに帰らなければならない。カールは車を出て、スーツケースごと隠すことを選択する。外は一面雪景色。シャベルのような小さな雪かきで、必死に穴を掘るカール。やっとのことでスーツケースを埋め、さぁ行こうかというときにふと気づく。辺りは荒野のような平地で、目印になりそうなのは木製の柵のみ。けれどもその柵は、等間隔にどこまでも続いていて、何本目の木の根元に埋めたかなんてわかりっこない。周囲を見回したあと、カールはおもむろに持っていた雪かきを突き立てる。雪に覆われただだっ広い平地に、小さな赤い雪かきがポツリ…。
バカですねぇ、そんなもの見つけるのに一体何時間かかるのか。大体雪が降って新たに積もってしまえば、どこにいったのかなんてわかりっこない。完全に間抜けとしか思えないでしょう。しかし、そこがコーエン兄弟の巧みなところだと思います。一生懸命だからこそ、必死なゆえに、時に人は常識では考えられないバカなことをする。そうした人間の心理を見据え、登場人物たちの行動によって見事に表現したのです。そしてその必死な姿というのは、おかしくて笑えるのだけれど、同時に哀れでならない。なんと言っても本人は真剣なのですから。映画のコピーにもありましたが、可笑しいからこそ哀しいし、哀しいから可笑しい。
シニカルで少しブラックな微妙なユーモアとともに、人間のひとつの側面ー人ってのは滑稽で哀れな存在なんだということを感じさせる。それがこの作品でコーエン兄弟の描こうとしたことであり、同時に映画『ファーゴ』の魅力となっているのではないでしょうか。
(ジョエル・コーエン監督/1996年/アメリカ/カラー/98min)
2004年2月3日
僕はWEBで日記を書いているけれど、書き続けることの重要さをよく感じる。なんにも無かった日に「何も無かった」と書くだけでも、たとえそれが10日続いたとしても、書き続けることは大事だと思っている。そのうちに、言葉がだんだんと自分の体の一部のように溶け込んでくる。それはいずれ日常になり、顔を洗ったり、うんこをしたりするのと同じように、僕は心の奥底のつぶやきを言葉にする。
けれど、日記というのは、きっとその日その日にはそんなに価値が無いのかもしれない、と思うことがある。昨日思ったことは今日覚えているし、そしてそれは当たり前のことだし、当たり前のことというのは大抵見えないうちに通り過ぎていくものだからである。だけど、たとえば十年後、十年間出し続けたうんこが勢ぞろいして、くじらを入れるような水槽にたっぷり詰まっていたら、感動するかもしれない。それは、個々のうんこへの思い入れを超えて、その多大なる蓄積に、さまざまな思い出が駆け巡り、現在の自分というものを介して、何か特別な解釈や意味を与えることになるからだ。
この作品は、要するに、ただの日記である。21年間も蓄積した、僕なんかは初めて顔を見る、西洋のおじさんの日記である。言い換えると、21年分のおじさんのうんこである。彼は映画が好きだったから、紙に書く代わりに、21年間、フィルムで日記を撮り続けた。カメラを立たせて、笑顔の自分を撮っているくらいだから、ほんとうにプライベートな代物だ。しかし、21年分のうんこをなめてはいけない。僕は、うんこ味のカレーはなめられるけどカレー味のうんこはなめられない。それは関係ないけど、この蓄積は伊達じゃない。
例えば、亡命してアメリカに逃げ込んだ彼が、数十年ぶりに祖国リトアニアに帰って母と対面するカットがある。対面するといっても、もうよぼよぼになったお母さんが、カメラの前で恥ずかしそうにしているカットである。通常ならこんな大事なシーン、長々と入れてしまいそうだけど、なんとものの5秒くらいである。セリフも無い。こんな重要なシーンが、かなりそっけない扱いだ。カップラーメンのふたを開けている間に終わってしまう。
では、このカットはあってもなくてもいいようなどうでもいいカットだったか?心に焼き付かれることなく、見過ごしてしまうような些細な光景だったか?いや、それは違う。僕はむしろ、この徹底的な短さに、想像もつかないほど果てしなく長いブランク(母と会えなかった時間)を感じてしまう。ふだん泣かないような僕が、ほろりとしてしまう。その微笑ましさに、口の形も歪んでしまった。・・・今までが長すぎたのだ。だから、その瞬間は、いとおしいくらいあっという間に過ぎる。この短さ、そっけなさが、むしろその裏側にあるものを大いに想像させる。
日記というのは、もちろん、その日その日の感性で、その日その日の視点が刻まれるものだと思う。これは、紙でも映像でも同じだろう。しかし、映像は構成される。その構成をするのは、「今」である。(もちろんその「今」は過去だけど)。つまり、この作品には、そのときの時間と、「今」という時間が同時に流れている。昔の映像を振り返っている、ある西洋人のおじさんの顔を、くっきりと感じることが出来る。
リトアニアでの母の映像のバックで、「もう一度、ママに会いたい」と彼はナレーションを吹き込んでいる。そこには、母の料理をつくる手つきや、ミルクをバケツに汲む腰のくねりを見る彼とは、違う視点の彼が、同時に存在している。きっと、編集しているときは、彼はリトアニアを離れ、アメリカの編集スタジオで、ひとり母親のフィルムを眺めていたのかもしれない。そして、このよぼよぼのお母さんに会えたのは、これが最後だったのかもしれないと、切ない気分だったのかもしれない。
そのことを考えると、数秒で切り替わる、しかしじっくりと描かれた母の一挙一動が、とても彼にとって大事なものであるということが余りあるほど伝わってくる。撮影されてから編集までどれだけの時間が流れていたのか分からないけれど、これだけの長い間降り注がれている「愛」というのはデカイ。果てしなくデカイ。うんこの話を最初にしておいて恥ずかしいけど、でも本当にそう思う。
彼は作品の後半、自分を亡命に追い込んだ戦争に触れて、いやもっと世の中は平和であるべきだというようなことを言っている。昔自分が居た施設の子供を映して「子供たちよ、走れ。かつて自分がそうしたように」と励ましの言葉を贈る。まぁ冷めた言い方をすれば、そういうことを言う言葉だけを取り上げれば、割とありきたりなことを言っているのかもしれない。だけれど、これらの彼のメッセージには強い説得力がある。それは、作品の中盤までに注がれた、母親への愛や、その有り難さについて、充分すぎるほど表現しているからだろう。僕にとっては、これは、ただの日記映画を超えて、ひとつのメッセージになっている。まさに、長い蓄積の成果といえるだろう。
(ジョナス・メカス 監督/1972年/アメリカ/白黒+カラー/87min)
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中村 武史
nakamura takeshi

大里 圭介
oosato keisuke
プロフィール
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