2005年7月3日
お世辞にも美しいとはいえないホモの中年男性と、南米系独特の濃さを放つ政治革命家の獄中での愛。そんな特異な設定のもと描かれるこの作品の魅力は、なんといっても脚本の素晴らしさと、俳優たちの真に迫る演技にある。
ウイリアム・ハート演ずる主人公モリーナは、自分のお気に入りの映画の話をすることが大好きで、身の回りにあるモノも、刑務所らしくない色とりどりのポスターや、写真に囲まれている。毎日の化粧も欠かさず、おしゃれに着飾っては憧れの女優に自分を重ねる。いわば夢見がちなキャラクターである。
一方、ラウル・ジュリア演ずるヴァレンティンは、祖国の政治体制や、革命を起こそうとしている同胞に対する危惧、自身の属する組織のことが頭から離れず、自分のことは二の次。生粋の現実主義者といってよいだろう。
一見すると、それは単に正反対のキャラクターを配置しただけに思えるかもしれない。しかしこの作品では、例えば獄中に至るまでのそれぞれの人生から、ひいては彼らが身を置く南米の国家体制まで、さまざまな物事の背景が丁寧に見据えられ描かれていく。つまり、時代性や、国家といった大きな枠をなおざりにすることのない広い視点が、キャラクターの造形をより深いものにしていると言えるだろう。
そうしてキャラクターに深みを持たせながら、同時にエンターテイメントとしての要素を十分に発揮しつつ、この作品の最終的な落としこみ、テーマは、「悲劇的な愛」という一点に向かう。
印象的なシーンを挙げよう。
物語のクライマックス。拷問によって衰弱しきったヴァレンティンが、モルヒネの注射を打たれ、薄れ行く意識の中で垣間見る幻想。それは、政治活動のために離れ離れになった恋人が、彼を刑務所から脱出させるというものであった。ふたりの行く末を阻むものはおらず、まず恋人が門を抜ける。そして、さぁヴァレンティンの番というとき、彼はふと振り返り、つぶやく。「モリ—ナは??」
終始現実を見続け、現実のために自身を犠牲にするヴァレンティンが見る、唯一にして最期の夢。そんな夢の中にあって、彼がつぶやくセリフひとつ、振る舞いひとつで、彼の心の内においてモリーナの存在がいかに大きかったかが伝わりはしないだろうか。
一方、モリ—ナは、一足先に出所したのち、ヴァレンティンの頼みを聞く形で組織との連絡を取ろうとする。しかし、その計画は失敗し、結局銃殺されてしまう。見果てぬ夢を見続け、きらびやかな世界に憧れ続けたモリ—ナは、荒んだ街角のゴミ捨て場に投げ捨てられる…。
現実でしか生きられなかった男が幻想の中で息絶え、夢を見続けた男(女)が、現実によって無残に殺される。けれども、その死の瞬間、彼らは互いに相手のことを想う。
ただ悲しい結末のために、感動するのではない。悲恋・悲劇の物語は、世の中に溢れかえっている。この作品は、その綿密な脚本と、リアリティーのある描写、魅力的なキャラクター(それを演じる俳優たち) でもって [人が人を愛することの強さと、儚さ] を同時に描ききっている。だからこそ、単なる恋愛物語にはない衝撃を受ける。そこには、強烈な皮肉と、限りない切なさと虚しさ、愛の深さがあるのだ。
(ヘクトール・バベンコ 監督/1986年/ブラジル・アメリカ/カラー/119min)
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中村 武史
nakamura takeshi

大里 圭介
oosato keisuke
プロフィール
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