2008年5月12日
中国人の監督が日本の靖国神社のドキュメンタリーを撮ったという「先入観」はどうしてもあるわけで、見る前からいろいろな意味で深く突っ込んだ内容のものを期待していた部分がありました。
そうしていざ作品を見てみると、靖国神社にまつわる様々な問題点・争点、神社自体の歴史、成り立ちに切り込んでいくというよりも、靖国神社に集う人々、取り巻く人々を冷静に、丹念に撮影していったという印象。
見終えた後の感想はとしては…どうももやもやした印象がぬぐえないというのが正直なところ。
以下内容に触れます。
作品を大きく分けると、
○靖国神社をとりまく様々な人々の主張を記録した映像
○靖国神社に奉納する靖国刀を作っていた刀鍛冶・刈谷さんへの取材映像
とで構成されている。
刀鍛冶・刈谷さんへのインタビューはドキュメンタリーならではの「発見」に満ちた、魅力的な映像だった。
とりわけ撮影者の質問に沈黙する刈谷さんの姿が印象的だ。質問に窮しているのではなく、簡単には答えられないという葛藤が見て取れる。刀鍛冶としての、職人の誇りと、靖国刀を作り続けてきた責任と重み。内面を推し量ることは難しいけれども、割り切ることなどできない問題なのだということが伝わってくる。
刀作りを再現してもらう工程では、言葉にしてしまうと陳腐ではあるものの、技の美しさ、確かさが感じられ、思わず見入ってしまうものがあった。
(伝統として受け継がれてきた技を元に、当時の時代背景の中で、求められる形で職人が作った刀。そこには美しさと力強さを感じた。極端に言えば、たとえそれが戦場で将校の刀となろうとも、人の首をはねることに使われようとも、その刀を作り出した匠の技と、もの自体の持つ文化的な背景は否定できない自分がいる。少なくとも、後の時代の人間が簡単に割り切って断罪することなどできないし、文化そのものを否定することなどできないのではないか。と考える。)
「休みの時に聞く音楽→靖国の音楽」と聞き間違えたときのズレは、この作品の中でも魅力的なシーンのひとつだと思う。
一方で、そのほかの人々のインタビューは突っ込みが曖昧なせいもあり、刈谷さんに比べて彼らのスタンス、背景がわかりにくい。いちがいには言えないが、「靖国」に登場する多くの人々にとって、それが例え擁護すべき対象であれ批判すべき対象であれ、靖国神社という存在自体が、自身のアイデンティティーを安定させる、出自を明確にするための一種の「拠り所」となっている側面があると感じる。
そうしてそれまで重ねられていた取材、インタビューとは異なり、過去の映像を抜粋し、音楽にのせて構成したコラージュ風の映像がラスト近くに流れる。おそらくもやもやとした違和感はここに集約される。
それまでの取材では、多様な主張と現実の様相が映し出され、少なくとも割り切れる物事としては見えていなかったはずだ。靖国神社、日本の戦前戦後の歴史を単純に一本のラインとしてつなげ、物語化してしまっているこのコラージュは、あきらかに飛躍がありすぎるのではないかと思った。
(出所の不明瞭だという)過去の映像(写真?)を事実の集合として語ることにも違和感を覚えてしまう。
絞るポイントによってはいくらでも読み取りようのある‘開かれた感じ’なのだけれど、作品全体で考えると納得できない。編集・構成によってぼんやりとした意図・主張は見え隠れするものの、どうも判然としない。監督自身の日本・靖国神社に対する視点が非常に気になった。
(むしろ何に配慮することもなく、明確に突き詰めて欲しかった。そうするとひょっとしたら中国人から見た「日本」「靖国」になるかもしれないが、ドキュメンタリーとしてはむしろそちらのほうが興味深い。なので、インタビュー中に、刈谷さんが逆に監督に向かって質問をしたとき、監督は答えるべきだったのではと思う。)
相対的に俯瞰した視点で見つめようとも、ドキュメンタリーにおいて公平・中立・正義などあってないようなものだと観客でさえ気づいている。そしてイデオロギーや時代性といったものから人は逃れることなどできないのではないかとも思う。
ドキュメンタリーのおもしろみとはどこにあるのか…。その疑問に完全に答えられはしないけれども、現実に対する興味に始まって、その現実からなにを発見できたかにかかっていると思う。
作り手がモチーフに対する自らのスタンスを踏まえ、その出自をもとに歴史を顧み、誠実に現実を観察し、記録し、「発見」したものこそが、ドキュメンタリーの強さにつながるのではなかろうか。
そんな真面目な疑問も考えた、渋谷シネアミューズは全回満員御礼、一日がかりの観賞だった。
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中村 武史
nakamura takeshi

大里 圭介
oosato keisuke
プロフィール
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