2009年10月21日

第27回「夏時間の庭」

(作品の内容に触れています。)

「移り行く時の流れ」と聞いて、人は何を感じるだろうか。
行く河の流れは絶えずして…のような無常観、仏教的な世界観だろうか。はたまた哀愁やノスタルジー、もののあはれ…?は少し違うか。
自分は「移ろいゆくもの」に対して情緒を感じるのだけれども、それはやはり日本人的美意識のなせる業なのかもしれない。

オリヴィエ・アサイヤス監督作品である、この「夏時間の庭」という映画も「移ろい行く時間」がテーマのひとつになっている。
宣伝文句としては、いわゆる『泣き』の物語と紹介されているが、果たしてそういう生易しいものではない。
失われたものに対する愛情や哀れみは確かに存在するが、そうした感情の起伏は、(印象的ではあるものの)短いショットの中に一瞬垣間見えるのみ。登場人物にも、観客にも、感傷に浸る間はほとんど与えられない。
母の死の余韻も覚めやらぬ中、それぞれの人生を生きていくために動き続ける登場人物たち。観客は、その動いていく様をつぶさに目撃することになるのだ。


移動し続けること。停滞しないこと。
変わり行く状況、降りかかる困難に「対応」していくためには、立ち止まってはならない。
例え大事なものを失ったとしても、思い出に捕われてはならない。それもあくまで変化の中の一部として受け止め、次の方向に動き出さなければ。もはや、変化それ自体が、現代を生き抜いていくためには必要なことなのだ。

そう言われている気がした。


正直言って、ラストのパーティシーンは孫世代への批判として描いて欲しかった。そうであれば、物語としてどんなに「わかりやすく」解消されたことだろう。

(それ以前のシーンで、長年夫妻の家に使えた使用人のエロイーズが、邸宅を訪れる描写がある。彼女は、空き家となった邸宅を窓の外からじっと覗きこむが、鍵がないのか、許可がないのか、中に入ることはできない…なんと皮肉なことだろう!思い出の場所にすがり、感傷にひたることを望む老婦人がそれを許されず、逆に「場」の記憶を享受しないキッズが、堂々と招待を受け、ロックとアルコールで楽しめるなんて。)

しかし監督は、そうした手段はとらない。孫娘は、祖母との記憶を胸に刻みながら、すぐに庭の向こうへと歩み始める。カメラはそんな彼女たちを俯瞰して捕え、彼女たちの行く末を見つめながら映画は終わる。やはり、次に向かって動き続けなければならないのだ。そう言わんばかりに。

#づけし(中村 武史)|づけし(中村武史)|コメント・トラックバック(0)